REIWAに「弥栄!」

    平成の30年間、サラリーマンとして仕事に生きてきました。 REIWAに入って生き様を見直しながら日々、雑感したことを書き連ねます。

のんべえおやじCDデビューする!

とうとう私もCDデビューしましたよ!

とはいっても音感があるわけではなく(小学校の頃にヤマハ音楽教室に行っていたぐらいで・・・)どちらかというとカラオケで音感を鍛えた時間の方が長かったでしょうか・・・

とはいえ、最近はカラオケはめっきりご無沙汰ですね。

 

そんな私がCDデビュー・・・といってもバックコーラスで歌わせていただいただけですが、何度も撮り直しでかなり苦労しましたので、本職の歌手の方は大変なんだろうなぁと思ってしまいました。

そのCDのジャケット名が・・・

「SAVIOUR  〜魂の救済者〜」

このCDには11曲が収録されていますが、そのうちの3曲に「SAVIOUR合唱団」として参加させていただきました。

 

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SAVIOUR 魂の救済者のCDジャケット

とはいえ、スタジオで録音したのが昨年の今年の3月でしたので、実に完成まで8ヶ月の期間を要しました。

本格的にCDを作成するのはこれくらいの期間を要するのでしょうね。

この「SAVIOIR合唱団」ですが、メンバーは東京・名古屋・大阪とバラバラ地区にて構成されています。

各地のメンバーが概ね60名ほど集まって各地区のスタジオに集結、そこで撮ったバックコーラスを合成して作成してこのCDは作成されたのですが、コロナのこともあり、メンバーが一堂に会する事はなく、事前の事前練習会はZoomにて遠隔で実施、その中で「発声の仕方」、「どのように気持ちを込めて歌うべきか」等々、多くのことを教わりました。

 

さて、このCDまだAmazonでは販売していないようです。

もし興味がありましたら↓で購入が可能なようですのでお求めください。

 

boscomusic.base.shop

 

どの曲も、とにかく歌詞がいい!

ではジャケットの名前になっているセイビアの歌詞を少し紹介しますと・・・

 

命のわけを知った時 真の心が蘇る

古(いにしえの)の英知の 扉を開き実(じつ)を知る

その胸に大志を その瞳に情熱を

大自然の叫びを 伝えまさむと思う

人は幼い心に 戻るすべを忘れて

迷いの森に埋もれて 振り返ることができず

真実の叫びを聞けば 元の命になる

いざゆけよはるかに 大志を持ち進めよ

誠の心を持ちて 人は歩むもの

 

このCDの曲を聴いて、もう一度

「自分たちがどんな目的を持って生まれてきたのか」

について振り返ってみると何か指針のようなものが見えてくるかもしれませんよ。

 

ちなみにSAVIOUR合唱団員の名前は全員、歌詞カードに載っています・・・

のんべえおやじの名前もね!

 

弥栄

 

寺野東遺跡  〜おやま縄文まつりの広場〜

今日は、縄文時代の集落のお話です。

栃木県小山市小山駅から水戸線で2駅行ったところに「結城」という駅があります。

この駅から歩いて30分ほどの場所にあるのが寺野東遺跡です。

この辺りで、1990年代に工業団地造成に伴う発掘調査が行われましたが調査の結果、旧石器時代から平安時代までのムラや墓地であったことがわかりました。

確かに遺跡の周りは工場が立ち並んでいましたが、この辺りに旧石器時代からなんと平安時代までムラがあったというのは驚きでした。

パンフレットによると32,000年前(旧石器時代)から人々が住み始めたようですが、遺跡を散策すると盆地を切り開いていて「とても気の良い場所」だと感じましたし、湧水地があったことで水を得ることができたこと、木々が多くて木の実も豊富だったことが古代の民族にとってかなり長い期間住みやすい場所だったんでしょうね・・・

 

以降、時代別にまとめてみると・・・

縄文時代 中期前半から後半(4,600〜4,300年前):

東側の大地に径190mの範囲の大きなムラが営まれ、竪穴住居跡約74軒と、木の実などを蓄えた袋状土杭がたくさん見つかった。

縄文時代 後期初頭(4,000年前):

ムラの規模は小さくなり、やがて低いところに営まれるようになりました。

この頃に水場遺構が作られましたが、この遺構は木の実のアク抜きを目的とした、水さらしの施設であり、後期には谷の水を積極的に利用し始めた。

縄文後期前半〜後半(3,800〜3,000年前):

ムラは谷の東西に営まれ、東側には関東地方では初めて確認された巨大な環状盛土遺構が作られます。 また、谷の小川から見つかった木組遺構は、多くが後期後半から晩期にかけて作られた。

縄文晩期(3,000〜2,300年前):

ムラは環状盛土遺構内側の削られた部分に営まれました。

小川の中にはひときわ大きな木組遺構が作られました。大型の木組遺構は、トチの実のアクを取り除くための施設と考えられます。

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縄文時代の遺構

遺構の図を見ると盛土が半分削られたみたいになっていますが、これは河川の侵食や用水を引いたことで削られてしまっていて、元々は丸く盛土が作られていたのでしょうね。

そう考えると、その真ん中に「石敷台状遺構」があって、これは当時のムラの住人にとって何か役割を持っていたのでしょうね・・・UFOでも呼んだのでしょうか?

あと、川の中に木を組んで、木の実の洗い場を作っていたようですが当時使っていた木が水の中に保存されていました。 木ってしっかり保存すると何万年も持つものだと痛感しました。

 

これは、この遺跡から発掘された縄文中期の土器です。

縄文土器って、後期よりも中期のものの方が複雑で芸術的な作りだと思っていましたが、やはり中期に作られたものは美しい形をしています。

縄文後期に入ると、今でいう弥生式土器のように単純なつくりになっていました。

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縄文中期の土器

ところで縄文土器のフォルムがこんなに複雑なのは、中に入れたものが腐敗しにくくなるような構造になっているためだということを聞きましたが・・・

こんな土器にお酒を入れて飲むと味が良くなるかもしれませんし、昔ブログに載せた縄文菌は縄文土器から抽出したものだという噂もあります。

私は今でもオレンジジュースを縄文菌で発酵させて飲んでおります。

 

524syuzoku.hatenablog.com

そういえば、今度日本酒に入れてみようかな・・・

弥栄

北陸酒物語 〜石川門と一ノ谷でつながる日本酒たちは永遠のヒーロー〜

最近、北陸神社シリーズを載せてきましたが、やはり現地の地酒を味わうことが私の人生における使命!

今日の見出しは長いですが、その理由は以下の通り、じっくり読んでみてください。

 

ということで、最近のんだ北陸のお酒・・・

 

まず最初は「御所泉」、蔵元は武内酒造です。

武内酒造店は、石川門醸造したお酒を作る造り酒屋です。

 

石川門とは・・・

うまい酒を造るために特別に育成された、石川オリジナル品種の酒造好適米のことを言いますが、その家系(ではなく米系?)は・・・

その昔、亀の尾と雄町の話をしましたが、石川酒52号ってのもあるのですね。

 

524syuzoku.hatenablog.com

 

この、石川門ですが、

「石川独自の米で、石川でしか造れない酒を造る」という長年の夢を現実にするために石川の酒造会社、米生産者、農業研究者のコラボレーションから誕生したそうです。

日本酒のために命をかけて米を作る農家と杜氏のコラボの作品って最高ですね!

 

この石川門の特徴は、「酒米の心白が極めて大きい」、「吟醸酒づくりにも適した」酒造好適米だそうです。

しかも、当初は石川門は酒づくりに理解のある4軒の酒米農家で栽培され、収穫された米は6社の酒造会社でしか醸造していなかったとのこと。

 

実はこのお酒、金沢駅の酒屋で物色していたときに、初めて見るお酒で雰囲気に惹かれて買ってしまったのですが、この酒店は近隣の一般消費者200軒余の方にしか、製造直販をせず、全製造数量 の90%を県内で愛飲されているそうで、地元金沢でも、なかなか手に入らないそうです。

 

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搾りたてにごり酒とあるように季節限定バージョンなんでしょうね。

金沢に行った際には「武内造店」をよろしく!

 

 

次はこれです。

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こちらは福井のお酒、一ノ谷「暁」で、蔵元は宇野酒造場です。

なぜ「一ノ谷」と呼ばれるようになったかというと・・・

 

明治以前、酒に名前がなく、屋号である『麦屋』の酒として販売されていたこのお酒、当時は
越前の国でお酒を飲む際に、「くまがい茶碗」という霜降り図柄の酒盃に酒を注ぎ、立ち飲みを楽しんでいたといいます。

そんなある日、この地に立ち寄った京都の俳人に、「くまがい茶碗」に注いだ『麦屋』の酒を差し出したところたいそう喜び、帰り際に屋号の『麦屋』と「くまがい茶碗」をもじって、
「麦屋の酒は一乃谷、くまがい(熊谷)で飲めばいつもよしつね(義経)」

と、短冊に一首示して立ち去りました。
以後、酒名を「一乃谷」と命名され、現在に至っているとのこと。

この一ノ谷、一番という意味ではなく、一ノ谷の合戦で活躍した「くまがい なおみ」ではなく「くまがい なおざね」からきているとのこと。

そうすると、「くまがい」は一ノ谷の合戦で活躍した熊谷直実と「くまがい茶碗」をかけている・・・

ということは・・・

 

524syuzoku.hatenablog.com

繋がりましたね!

 

さらにこのラベルは普通の暁ラベルとは色が違って青いんです・・・

それは「斗瓶取り」だからでしょうか?

 

斗瓶取りとは・・・

日本酒は、米・米麹・水を酵母によって発酵させて、できあがった醪(もろみ)を搾って液状部分と固形成分に分けることで、日本酒ができあがります。

その際に醪を搾って抽出するお酒を「斗瓶(とびん)」と呼ばれる容器で少しずつ集める方法のことを「斗瓶取り」と呼んでおり、一般には「酒袋」に醪をいれ、それを吊るして醪そのものの重みによって自然と滴り落ちるお酒を集める方法。

とれるお酒は少量のため、高級酒などに用いられることが多い。

とのこと。 

また一つ賢くなりました。

 

最後は写真だけです。

有名ですから特に何もいうことはないでしょう。

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今日も晩酌は日本酒で弥栄です。

 

泉涌寺 〜みてら訪問〜

 

今までは北陸神社シリーズでしたが、今回は京都です。

泉涌寺 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。皇室の菩提寺(皇室香華院)として御寺(みてら)と呼ばれています。

そもそも泉涌寺天皇の葬儀が行われることになったのは鎌倉中期、四条天皇の時からであり、四条天皇が12歳で没した際に、泉涌寺で葬儀が行われたのは、東福寺を建てたといわれている九条道家が関与するところが大きかったようです。

 

その後、江戸に入って後光明天皇の葬儀の後から、遺骸が泉涌寺に葬られる様になったのですが、これは火葬から土葬に変わったためだと言われています。

というのは、譲位が慣例化し、落飾する上皇も多かったことで、まずは遺骸が泉涌寺に運ばれ、葬儀が行われ、荼毘に付された後、火葬した遺骨を法華堂陵に納められていたのが常態化していました。

しかし、在位中の崩御は土葬という慣わしは生きていて、後光明天皇崩御された時はその慣わしから土葬、それがきっかけとなって以降、孝明天皇に至るまで計14代の天皇泉涌寺に葬られることになったのです。

という意味では、天皇がご存命のうちに譲位を行って次の天皇に引き継ぐということは過去においては一般的だったと言えるのではないでしょうか?

 

ちなみに過去の天皇陵は宮内庁が管理していて、リストがまとめられています。

www.kunaicho.go.jp

 

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泉涌寺 総門

話を戻しますと・・・

総門を通り越して、10分ほど歩いていくと大門があり、そこから寺に入って少し歩いていくと右手にあるのが、泉涌水屋形です。

 

説明書には、

・・・・・

泉涌寺の名の由来となった清泉を覆う屋形で、1668年(寛文8年)に再建された。 

内部は別所如閑(べっしょにょかん)筆の蟠龍図のある鏡天井となっている。

この地は月輪山の麓にあり、平安時代法輪寺を建立し、その後寺は「仙遊寺」と改称された。

その後、伽藍の造営を進めていくと清泉が湧き出したので、さらに寺名を泉涌寺と改めた

・・・・

と書かれています。

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泉涌水屋形

ここから奥に進むと仏殿・舎利殿・本坊となりますが、本坊の右奥の方にあるのが、霊明殿です。(普段は門が閉まっているのですが、たまたま開いていましたね。)

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霊明殿

この後ろに位置しているのが、後光明天皇から孝明天皇に至る歴代天皇の陵墓となる、月輪陵(つきのわのみさぎ)、後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)、後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)となります。

この陵墓、元来は泉涌寺が管理供養していましたが、明治維新後、神仏分離もあって歴代天皇・皇族の25陵・5灰塚・9墓は、皇室財産として宮内庁の管理となっています。

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月輪陵

この、明治4年神仏分離が進められた結果、泉涌寺はそれまで所有していた二十数万坪の土地を約四万坪に減らされ、いったんは官有地になったということで、ここでも神仏分離令の影響が今も残っていることを感じさせられます。

 

歴代の天皇の陵(みささぎ)に拝礼して「世界平和」を祈り、帰途に着きました。

 

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季節がら、菊が大輪の花を咲かせており、平穏な気分になりましたが常に世の中もこうあってもらいたいものです。

 

弥栄

御陣乗太鼓とキリコ 〜能登半島の先端へ!〜

今回は北陸シリーズの最後になりますが、神社の紹介ではなく御陣乗太です。

御陣乗太鼓の由来は、以下のエピソードから始まっているようです。

・・・・

天正4年(西暦1576年)、越後の上杉謙信は、能登の名城であった七尾城を攻略して「霜は軍営に満ちて 秋気清し 越山を併せたり 能州の景」と詠じ、その余勢をかって奥能登平定に駒を進めた。 現在の珠洲市三崎町に上陸した上杉勢は、各地を平定し天正5年、破竹の勢いで名舟村へ押し寄せてきた。

武器らしいものがない村人達は、鍬や鎌まで持ち出して上杉勢を迎撃する準備を進めたが、あまりにも無力であることは明白であった。しかし郷土防衛の一念に燃え立った村人達は、村の知恵者といわれる古老の指図に従い、樹の皮で仮面を作り、海藻を頭髪とし、太鼓を打ち鳴らしながら寝静まる上杉勢に夜襲をかけた。上杉勢は思いもよらぬ陣太鼓と奇怪きわまる怪物の夜襲に驚愕し、戦わずして退散したと伝えられている。

村人達は名舟沖にある舳倉島の奥津姫神の御神徳によるものとし、毎年奥津姫神社の大祭(名舟大祭・7月31日夜から8月1日)に仮面をつけて太鼓を打ち鳴らしながら神輿渡御の先駆をつとめ、氏神への感謝を捧げる習わしとなって現在に至っている。

・・・・

越後の覇者「上杉」が戦わずして逃げ出すということは、よほど強烈な太鼓と踊りだったのでしょうね。

 

このように歴史のある太鼓ですが・・・

発祥の地である石川県輪島市名舟町は、現在、世帯数約70戸、人口約250人の小さな小さな町で、その中で約20名の打ち手が御陣乗太鼓の選手として活動しているという事で、これからの継承も進めていかないといけない大切な文化ではないかと感じました。

www.youtube.com

 

今回は、輪島キリコ会館で御陣乗太鼓の無料実演会がありましたので、そこで太鼓の実演を見ることができました。

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御陣乗太鼓

御陣乗太鼓を打ち鳴らしている打手の方の後ろにあるのが、キリコと呼ばれているものですが、その大きさが良くわかるかと思います。

 

キリコとは・・・

「切子灯篭」(きりことうろう)を縮めた呼称で「切籠」と書き、中能登近辺では「奉燈」(ほうとう)とか「御明かし」と称するところもあります。

この「キリコ」が神輿の渡御(とぎょ)にお供して道中を照らし、神様をお守りしながら漂い、乱舞する祭りが「キリコ祭り」です。

能登でキリコ祭りが行われるところは、およそ180箇所あまりで、7月から9月半ば過ぎまで能登のどこかの町や村で毎夜のごとく、若衆の威勢の良い掛け声と笛、太鼓、鉦の音が聞こえてきます。

元は笹に御神灯を付けて持ち歩くことができる「笹キリコ」という小さなものでしたがやがて木製となり、漆塗りや金箔が施され、彫刻まで競い合うようになっていきます。江戸時代以降になると高さ10メートルを超える大型で豪華なキリコ現れるようになりました。

明治の中頃、輪島にはそのような大きいキリコが十数本も神輿に伴っていたと言います。

しかし、電線が張られるようになってからは4−6メートルほどのやや小型のキリコが主流となりました。

 

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キリコが勢ぞろい!

江戸の頃の輪島は、海路で物流が盛んでしたので、その中継地点として輪島も発展していたのでしょうね。(金沢あたりから車で行くとかなりの距離になりますが・・・)

この日の夜は、↓の丼ものをいただきました。

天ぷらになっているのはフグです。

フグの丼物は初めてでしたが、あっさりして美味でした。(残念ながら一杯やることはできませんでしたが・・・)

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フグどん

今回の北陸の神社巡りで感じたことは

皇紀よりももっと以前(3000〜5000年前)の時代には、太平洋側よりも日本海側の方が大陸の影響を受けやすく、大陸から多くの人たちが自然豊かな日本に住み着き、生活をしていたのではないかと実感しました。

その流れの中で、先住民族として暮らしていた縄文人たちが実践している自然信仰(磐座・山・滝 etc・・・)を引き継ぎながら、その神聖な場所を神社・寺として崇めていくことでこの日本という特別な国の文化に気づき・目覚め、その遺伝子が現代にも継承されているのではないかと感じています。

脈々と継承されているこうした文化を、これからも次世代に繋いでいくことが我々日本人としての義務なのではないかと思いますし、これからもこうした発信をしていきたいと思います。

長々と、北陸シリーズにお付き合いいただきましてありがとうございました。

 

弥栄

安宅住吉神社 〜勧進帳〜

安宅(あたか)住吉神社、御祭神はもちろん住吉三神です。

この神社にゆかりの物語は、源義経武蔵坊弁慶主従の「勧進帳」。

奥州平泉へと逃れ行く義経と弁慶一行と、道中で捕らえようと「安宅の関」で待ち受ける関守・富樫左衛門との間で繰り広げられる物語ですが、その舞台が、「安宅住吉神社」ですね。

史実上は、本当に義経が平泉に落ち延びる際にここを通ったかは疑問視する声もあるようですが、その話はさておき、

勧進帳(お寺に寄付を募るお願いが書いてある巻物のこと)のストーリーは、

・・・・・・

源頼朝との仲が悪くなった源義経は、武蔵坊弁慶らわずかな家来とともに、京都から平泉(岩手県)の藤原氏のもとへと向かいます。頼朝は平泉までの道すじに多くの関所を作らせ、義経をとらえようとしますので、一行は山伏に変装して関所を通過しようとします。

ところが関所を守る富樫左衛門は、義経たちが山伏に変装しているという情報を知っていたので、一行を怪しんで通しません。そこで弁慶は、何も書いていない巻物を勧進帳と見せかけて読み上げます。

通り過ぎようとすると、「義経に似た者がいる」と家来が訴えたため、再び呼び止めますが、変装がばれないようにするために、弁慶は持っていたつえで義経を激しく叩きます。それを見た富樫は、その弁慶の痛切な思いに共感して関所を通すのでした。

・・・・・・

というお話から、ここは「難関突破のお守り」が有名な神社です。

 

説明書には、

東に霊峰白山、西に荒海日本海、眼下に源平古戦場の梯川を見下す景勝の地、ここ加賀ノ国(石川県)安宅、二堂山(海抜15m)の頂に安宅住吉神社は御鎮座されています。

その創建は古く、歴史を遠く遡る事一千二百有余年前、奈良時代天応二年(782年)で、琴佩山に御鎮座されました。天暦二年(948年)鷹降山に天正五年(1577年)小倉野に御遷座され、さらに正保四年(1647年)現在の二堂山に御遷座されたのです。

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安宅住吉神社の本殿

実は、この神社も参拝に行くと巫女さんが寄ってきて本堂にあげてくれて安宅住吉神社の説明を10分ほどしてくれましたので、気多大社のように「幸娘」のような制度があるのかましれません。

 

参拝が終わって駐車場の横をみると端っこの方にこんな磐座(?)がありました・・・

まさかこれが御神体・・・

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駐車場のそばにある磐座?

真偽の程はわからず、暗くなってきたので今晩も美味い酒を求めて帰路に向かう私でした。

 

弥栄

 

氣多大社 〜幸娘に会いに行こう!〜

今日は、能登國一之宮 氣多大社です。

 

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気多大社

由緒によると

当大社の御祭神は、大国主神(又の名を大巳貴命)と申し、能登の地を開いた大神と仰がれています。創立年代は第10代崇神天皇の御代と伝えられ、延喜の制では名神大社に列しています。

この神社の本殿の奥には神木の杜、通称「入らずの森」と言われ、その広さは気多大社よりも大きくなっています。

本殿の奥に大きな杜あるということからも、崇神天皇の代よりもっと古くから信仰されていたのでしょうね。

神社の写真はH Pに任せるとして

keta.jp

参拝をして右側から出ようとしたところに「入らずの森」への入り口がありますが、入山禁止になっていました。

その横にあるのが「太玉神社」です。 なぜかHPには載っていませんね・・・

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太玉神社

 

 

この神社は「入らずの森」の端っこの一部にあるような感じでしたので、ここを参拝すると杜の氣の力を授かることができるかもしれませんね。

お社の前に立つと、気持ちが凛とする神社でした。

 

皆さんに良い氣が宿りますように・・・

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今回の参拝ですが・・・

鳥居をくぐると、巫女さんが近寄ってきて「お時間ありましたら当神社の説明をさせてほしい。」と声をかけられて、とても愛想がよかったのですが、勘違いした私は、「これが地方に若者を残すための方策なのか・・」と思い、地域貢献の観点(ただ、女性に弱いから??)からお守りも買いました。

 

帰ってから理由を調べてみるとこんなことがわかりました・・・

・・・

気多大社では、毎年、「幸娘」というお正月だけ奉仕する巫女を一般から募集している。

最初に始めた頃には、『CanCam』に広告を掲載し100 人を募集したところ、約 800 人の応 募があったという。その後、地元の応募が多くなり、地元で 50 人、県外 50 人募集へ変更 、さらに 2010 年度の募集は県外を 30 人に減らし、地元を 70 人にしたという。

県外からの応募が増えると、無関心であった地元の応募が増えるというまさに地方の「原点回帰現象」が起こったようですね。

最初は、素人ということもあって、大社側もご奉仕の内容に気をつかっていたそうだが、 幸娘を体験した人たちにアンケートをとると、「もっと厳しくして欲しい」という声が多かったようで、神社側も翌年から凍える寒さの中で日本海で行う「禊」を入 れるようにしたと言う。

幸娘への応募の動機には、様々あるが、自分が海外に行って日本の文化や宗教について 聞かれてもほとんど答えらず、日本の歴史に対する無知に気づき、歴史や宗教、文化を学 ぶために来る学生も多いそうだ。

 

海外に行って日本の文化や宗教を語ることのできる女性(男性も)をもっともっと増やしていくことがこれからの日本には大切で、こうした日本の文化の伝承が雛形となって「世界平和」につながっていくことを楽しみにしています。

 

弥栄