REIWAに「弥栄!」

    平成の30年間、サラリーマンとして仕事に生きてきました。 REIWAに入って生き様を見直しながら日々、雑感したことを書き連ねます。

天日陰比咩神社

今日は、出須流岐比古神社(イズルギヒコ)の下宮といわれていた天日陰比咩神社の話です。

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天日陰比咩神社

 

由緒には、

祭神 矢船久久能智命(ヤフネククノチノミコト) 草木や建造物の守護神

   大己貴命 応神天皇

当社は人皇10代崇神天皇の御宇御鎮座の官幣社で、二千百余年の歴史を持つ延喜式内社であります。また往古より菊御紋を装飾した郷十八か村の総社氏神でもありました。

建長四年(鎌倉時代)には能登国二宮となり 文徳天皇より後圓融天皇まで九度の神位を受けております。

社殿後山は天日加気山といい 大御前嶺社は 羽咋鹿島両郡の雨乞所後であり 中御前は崇神天皇の御廟跡で 印色入日子命(イニシキノイリヒコノミコト)(垂仁天皇の御子)の御陵墓跡とも伝えられています。

 

御祭神である矢船久久能智命は、伊奘諾と伊奘冉より生まれた木の神なので、神社の創建の時期はかなり古いことがわかりますね。

しかも、神社の後ろの山が信仰の対象である御神体になっていることから、この辺りは縄文の時代から信仰の対象になっていたのではないかと感じられますね。

 

 

なぜか狛犬が逆立ちしています・・・

出須流岐比古神社が、外に出さないような重い感じのする神社でしたが、ここはオープンな感じの神社でした・・・ さて、この違いはなんなのでしょうか??

 

おまけ

砂浜でこのような芸術を見つけました。

冬に入ると「日本海の荒波」は強風を伴って厳しい冬を演出していますが、秋口ですとまだまだ芸術を楽しむことができるのですね・・・

でもこの砂・・・どうやって固めたのでしょうか??

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砂の芸術

弥栄

伊須留岐比古神社

 

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伊須留岐比古神社

この神社は、七尾市南方にそびえる石動山(せきどうさん、いするぎやま、標高565m)山頂付近に鎮座しております。石動山縁起によれば、星が流れ落ちて三石となり、その一つ、「動字石」がこの山に落ちて以来、石動山と称するようになったと云われています。

開山は紀元前92年(崇神天皇6年)とも717年(養老元年)とも言われ、延喜式に伊須流岐比古神社として登場する。後に、虚空蔵求聞持法の修法や修験的な峰入り行が盛んになり、真言宗の寺院となって隆盛を極めた。

加賀、能登越中山岳信仰の拠点霊場として栄え、石動山に坊院を構えた天平寺は、天皇の御撫物の祈祷をした勅願所である。最盛期の中世には北陸七カ国に勧進地をもち、院坊360余り、衆徒約 3,000人の規模を誇ったと伝えられる。祭神は五社権現と呼ばれ、イスルギ修験者たちを通じて北陸から東北にかけて分社して末社は八十を数える。

南北朝時代には宮方の越中国司中院定清をかくまったため、足利尊氏の命を受けた同国守護普門利清に焼き討ちされて一時衰退した。

その後、戦国期には復興し、北陸に一向一揆勢力が勃興する中でも隠然たる勢力を誇ったが、1582年(天正10年)本能寺の変直後の混乱に乗じて、越後の上杉方についていた能登畠山氏旧臣が蜂起し、天平寺衆徒と共に石動山に立て籠った為、前田利家、佐久間盛政、長連龍らの織田軍に焼き討ちされ、再び全山焼亡した。

明治には廃仏毀釈によって衰亡した。山頂一帯は国の史跡に指定されている。

中能登町二宮にある天日陰比咩神社はかっては伊須流支比古神社下社と称していた。

 

本殿の写真ですが、格子でがっちり囲まれていて外からの侵入をがっちり防いでいるように見えますね。

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本殿

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忌部の灯篭

本堂の近くに・・・見つけました! 

トベの灯籠!

和歌山でも見つけましたが、トベは海沿いのみならずこうした山中にもいたのですね。

524syuzoku.hatenablog.com

 

雰囲気的にも、この神社には何か隠されたものがありそうです。

次回は、かって伊須流支比古神社下社と称していた天日陰比咩神社をレポートします。

 

弥栄

 

石浦神社  〜なぜか隣に三輪神社〜

石川県にある石浦神社です。

こんな形で神社の石柱が2本並んでいるのは珍しいですね。

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石浦神社と三輪神社

由緒書を見ると、越後国加賀郡に住む三輪の氏子が奈良時代に、居住地に社祠を建て、大和国大神(オオミワ)神社の神霊である大物主大神を勧請し、「三輪神社」(547)と号したのが起源である。・・・

 

とありますので、

この神社は三輪山の表に出ている大神神社のワケミタマ(大物主)のようですね。 だから、こんな街中に祀ってもらうことを目的として、こんな街中に神社を建てたのでしょうか・・・

あと、長谷観音も祀られていますが、この観音が祀られるようになったのはその後になります。

 

奈良の三輪山の近くにある「大神神社」の由緒書によると、

当社の創祀に関わる伝承が『古事記』や『日本書紀』の神話に記されています。『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀られることを望んだとあります。

また、「日本書紀」でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗られたとあります。 そして「古事記」同様に三輪山に鎮まることを望まれました。この伝承では大物主大神は大国神の別のとして顕現され、三輪山に鎮まられたということです。

このように、記紀の神話に創祀が明瞭に記されていることは貴重なことで、当社が神代に始まった古社中の古社と認識されており、御祭神の神格が如何に高かったかを物語っていると言えます。

そして、御祭神がお山に鎮まるために、当社は古来本殿を設けずに直接に三輪山に祈りを捧げるという、神社の社殿が成立する以前の原初の神祀りの様を今に伝えており、その祭祀の姿ゆえに我が国最古の神社と呼ばれています。

とあります。

oomiwa.or.jp

 

とすると、大神神社の創建は3000年以上前だったのかもしれませんね。

この石浦神社ですが、三輪神社と呼ばれていることや、本殿の横に湧き水の出ている御手洗池が御神体でこの神社ができたとすると、三輪神社の始まりは6世紀よりもっと古い時代だったのでないでしょうか?

 

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御手洗池

石浦神社は、Google mapによると「金沢で最も古い神社」とあるところから考えても神武天皇より古い神社だと思われますが、こういうタイプの古い神社が街中に(ひっそり?)とあるのは珍しい感じがします。

 

最近、神社づくしでしたので、「日本酒オヤジ」ですので金沢の日本酒を一つ紹介します。

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金沢限定の酒「銀の月」

 

www.ishikawa-sake.jp

明治元年(1868年)の創業。

日本でも有数の小さな蔵元で、近隣にのみ製造直販を行っているそうです。

それで初めてお目にかかったのでしょうね。

酒銘として、創業した地名の旧称「御所村」にちなんで『御所泉(ごしょいずみ)』が主力商品とのこと。

金沢はクセになりそうです・・・

 

弥栄

菅生石部神社   斎藤さんの始まり神社

今日は1400年の歴史を誇る加賀国二ノ宮の菅生石部神社です。

社伝によれば、用命天皇元年(585年)、この地で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた菅生石部神が勧請されたのに始まるといわれており、「斎藤」姓発祥の地であり、氏神として知られています。

斉藤というのは斎王のお手伝いをする藤原氏から出てきた姓だとか・・・

 

斎王とは・・・

天皇に代わって伊勢神宮天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことである。歴史に見られる斎王制度は、天武二年(674)、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まる。

 以来、斎王制度は660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在した。伝説は、伊勢に天照大神を祀った倭姫命(やまとひめのみこと)など、さらに多くの斎王の物語を伝える。

 制度が確立して以降の斎王の任が解かれるのは、主に天皇が代わったときのみ。

年に三度、伊勢神宮に赴く以外は、一年のほとんどを斎宮で過ごし、神々を祀る日々を送っていた。また、神に仕える身ゆえに恋をすることも許されず、伝説に語られる斎王の中には己の命を絶って身の潔白を証明した哀しい斎王や、恋ゆえに斎王を解任されたり、恋人と引き裂かれたりした斎王もいたのである…。

と、明和町のHPには書かれています。

www.town.meiwa.mie.jp

つまり、斎王とは天皇のお世話係の役割を果たしていると考えて良いかと思います。

そこで斎藤姓の話に戻りますが、

斎藤姓は「斎王に仕える家系である藤原氏」のことを指して「斎藤」と呼んだようです。

さすが当時、天皇の妃を数多く供給してきた藤原氏

斎王のお世話役も藤原氏から輩出していたようですね。

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菅生石部神社の本殿

さて、本殿の写真ですが、左右に牛と馬の銅像・・・

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隣の白山社にも牛さんが・・・

この神社、やたら牛と馬の立派な銅像が、社をまもっているようにみえました。

昔から神社にある牛と馬は悪(例えば病)を倒す意味合いで置かれることが多いのですが、この神社の始まりが、加賀で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた神々(現・菅生石部神)が勧請されたことが理由としてあるのでしょうかね。

 

弥栄

若狭一ノ宮 若狭彦(上宮)・若狭姫(下宮)神社  

今日は若狭一ノ宮のお話です。

場所は小浜市で一時、オバマ米大統領を呼ぼうということで盛り上がっていたことがあったように記憶しています。

確かに小浜のホテルには、お土産にオバマ饅頭がありました。(買わなかったけど)

オバマまんじゅう : おいしいもの図鑑

 

話を戻して、小浜市の遠敷というところにある若狭一ノ宮の上社を「若狭彦神社」、下社を「若狭姫神社」といいます。

若狭姫神社は、別称として郡名から「遠敷(おにゅう)明神」とも呼ばれています。

 

若狭彦神社の神事として有名なのは、「お水送り」が知られていますね。

当地の伝承では、

東大寺二月堂で全国の神を招いた会があったが、遠敷明神は漁で忙しかったため遅刻してしまった。

そのお詫びとして、遠敷明神は二月堂の本尊である十一面観音にお供えの閼伽水を送ると約束したという。

白石から下った所にある鵜ノ瀬と呼ばれる淵は、二月堂の若狭井に通じているとされていて、旧暦2月には、鵜の瀬で二月堂に水を送る「お水送り神事」が行われる。

その水を受けとる祭事が東大寺二月堂の「お水取り」とのことです。

 

お水送りは↓の動画をどうぞ。

www.google.co

でも、「お水送り」、「お水取り」がそんなに離れたところまで地下で繋がっているのかはよくわかりませんが、若狭彦神社から平安京平城京飛鳥京ー熊野本宮は一直線につながっています。

GPSもない時代に古代の人たちの日本を俯瞰してみて神社・京都をおく力量はすごいものですね・・・ ひょっとしたらお水送りの「地下水脈」は本当にあるかもしれません。

 

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更にこの若狭彦神社、本殿には千木・鰹木を見ると・・・

千木が上を平たく切ってあり(内削ぎ)、鰹木が10本あります。

ということは・・・ここには女神が祀られている?

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若狭彦神社(鰹木が10本・・・)

今度は若狭姫神社に行くと・・・

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若狭姫神社(千木も鰹木もない・・・)

ここの神はどこに行った??

 

雰囲気的にみても由緒書に書かれている歴史より古くからある何か不思議な神社でした。

古いが故に、隠された色々な歴史がありそうですね。

中世には若狭彦神社が一宮、若狭姫神社が二宮だったそうですが、今は2つで一宮となっています。

この2つの神社が、周りの、いや日本中の神社に何か大きな影響を与えている様に感じました。

またいつかもう一度寄ってみたいと思います。

 

弥栄

 

 

 

 

加賀山代 服部神社

神社史によると、
・・・・・・

和銅年間(708~714)に筑紫国宗像大神(つくしのくに むなかたの おおかみ)(現在の福岡県の宗像神社)の工女が山代へ来て、機織や裁縫の技術を伝え、機織の神の天羽鎚雄神(あめのはづちをのかみ)を祀(まつ)るとある。元は大堰神社(おおひじんじゃ)付近にあり、貞観16年(874)に従五位の位が与えられ、延喜式明神帳(927)にのっている山背郷社(やましろのごうしゃ)と考えられている。

花山法皇が北陸を巡行し、参拝したという時代には、たいへん立派だったこともうかがえる。しかし、天文21年(1552)、越前の朝倉義景の戦火にあって社殿が焼失。

江戸末期には廃絶されていたが、明治8年(1875)、現在の場所に服部神社を再興。菊理媛神(くくりひめのかみ)をまつる白山神社と合併して郷社(ごうしゃ)となった。

・・・・・・

という歴史ですが、こじんまりした神社の中に多くのものがぎっちり詰まっていたように感じました。

 

ちなみに、大堰神社のHPです。 

従五位の位が与えられた年がズレてますが、気にしないで行きましょう。

www.ishikawa-jinjacho.or.jp

 

「服部」という名前で連想するのは、服部半蔵⇨忍者」というのが私の思考のパターンなのですが、やはり、服部というのは行者から忍者に近い天狗族に由来しているようです。

機織の神の天羽鎚雄神とは繋がらない感じがしますね。

 

入り口には一言地蔵・・・

「お寺なのにお地蔵さん?」と思いましたが、一生で一度だけお願いを叶えてくれるそうなので、参拝される方は試してみてくださいね。

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一言地蔵

鳥居をくぐって境内に入ると左手に馬の像があります。

ペガサスのように羽が生えているのは羽衣を着せているのでしょうか?

やはり、天羽鎚雄神の機織りの衣と関係しているのでしょうか?

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羽衣をまとった馬?

あと、参拝するときに驚いたのは、狛犬の位置が左右逆・・・

これは神社の中から外に出さないようにするためにこうして置かれているそうです・・・

 

さらに手水舎が鷲を彫ったもので思わず八咫烏を連想してしまいました。

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手水舎

境内の由緒書によると、

鎮座:石川県の加賀市山代温泉拾8、7丁

天羽鎚雄命は、天太玉命に隷属せる天日鷲命の御子にして初めて麻をもって丈布を織り給ふて機織の業に特に功を成したまへり。

とありますので、天太玉命とその子分の天日鷲命が機織りの工女を集めてこのエリアに住まわせ、麻織物を編んでいたのでしょう。

山代温泉の近くで、保養に来る旅人ばかりのような感じがしましたが、当時は機織りも盛んだったようです。

 

ちなみに近くに山代温泉の総湯があります。

山代温泉の開湯の歴史は古く、神亀2年(725)に行基が白山登山の道中に自然湧出していた温泉の効能を発見し、温泉寺を開いたのが始まりとされています。

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山代温泉総湯

ここの温泉はあまりキツくないので湯当たりしにくいそうですので、一度、長期間滞在してみてはいかがでしょうか?

 

弥栄

 

 

 

那谷寺(なたでら)  

 

養老元年(717)泰澄によって白山が禅定され、那谷寺も開創されました。巨大で幽玄な岩が多く残る土地にお堂を建立し、本尊・十一面千手観世音菩薩を安置したため、当時の名は「岩谷寺」と呼ばれていました。 後に花山皇王が御幸された際、洞窟内の本尊を拝され、「那谷寺」と名を改めました。

南北朝の争いで多くを焼失しましたが、寛永年間に加賀藩主・前田利常によって復興され、現在も白山信仰自然智の森として祈りを捧げています。

と説明書には書かれています。

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紅葉が色づいて綺麗です

紅葉が始まっていて美しい庭園なのですが、岩肌に削り取られてような洞窟のようなものが・・・

 

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那谷寺の庭園

この岩を、「奇岩遊仙境」を呼んでいますが、近づいていくとその洞窟に石碑が並んでいるのがわかります。

これは五穀豊穣と豊かな自然を祈る稲荷社を祀っています。

・・・ということは、昔は神社として祀られていたものが神仏習合の形で「那谷寺」となったことがわかりますね。

 

しかも、この洞窟がなぜ出来たかというと、

その昔はここから勾玉の材料となる「太玉」を掘り出していたとか・・・

だから那谷寺の前は岩屋寺(多分、神社だった?)なのでしょうね。

翡翠で有名な糸魚川からは少し離れていますが、こうしたところから翡翠が取れるということは日本って意外と資源大国なのかもしれません。

あまりこうした情報が広がると、資源獲得戦争で日本を征服しようとする国が現れかねないので内緒にしておきましょうか・・・英語で「内緒だよ!」

弥栄