今までは北陸神社シリーズでしたが、今回は京都です。
泉涌寺 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。皇室の菩提寺(皇室香華院)として御寺(みてら)と呼ばれています。
そもそも泉涌寺で天皇の葬儀が行われることになったのは鎌倉中期、四条天皇の時からであり、四条天皇が12歳で没した際に、泉涌寺で葬儀が行われたのは、東福寺を建てたといわれている九条道家が関与するところが大きかったようです。
その後、江戸に入って後光明天皇の葬儀の後から、遺骸が泉涌寺に葬られる様になったのですが、これは火葬から土葬に変わったためだと言われています。
というのは、譲位が慣例化し、落飾する上皇も多かったことで、まずは遺骸が泉涌寺に運ばれ、葬儀が行われ、荼毘に付された後、火葬した遺骨を法華堂陵に納められていたのが常態化していました。
しかし、在位中の崩御は土葬という慣わしは生きていて、後光明天皇が崩御された時はその慣わしから土葬、それがきっかけとなって以降、孝明天皇に至るまで計14代の天皇が泉涌寺に葬られることになったのです。
という意味では、天皇がご存命のうちに譲位を行って次の天皇に引き継ぐということは過去においては一般的だったと言えるのではないでしょうか?
ちなみに過去の天皇陵は宮内庁が管理していて、リストがまとめられています。
話を戻しますと・・・
総門を通り越して、10分ほど歩いていくと大門があり、そこから寺に入って少し歩いていくと右手にあるのが、泉涌水屋形です。
説明書には、
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泉涌寺の名の由来となった清泉を覆う屋形で、1668年(寛文8年)に再建された。
内部は別所如閑(べっしょにょかん)筆の蟠龍図のある鏡天井となっている。
この地は月輪山の麓にあり、平安時代に法輪寺を建立し、その後寺は「仙遊寺」と改称された。
その後、伽藍の造営を進めていくと清泉が湧き出したので、さらに寺名を泉涌寺と改めた
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と書かれています。
ここから奥に進むと仏殿・舎利殿・本坊となりますが、本坊の右奥の方にあるのが、霊明殿です。(普段は門が閉まっているのですが、たまたま開いていましたね。)
この後ろに位置しているのが、後光明天皇から孝明天皇に至る歴代天皇の陵墓となる、月輪陵(つきのわのみさぎ)、後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)、後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)となります。
この陵墓、元来は泉涌寺が管理供養していましたが、明治維新後、神仏分離もあって歴代天皇・皇族の25陵・5灰塚・9墓は、皇室財産として宮内庁の管理となっています。
この、明治4年の神仏分離が進められた結果、泉涌寺はそれまで所有していた二十数万坪の土地を約四万坪に減らされ、いったんは官有地になったということで、ここでも神仏分離令の影響が今も残っていることを感じさせられます。
歴代の天皇の陵(みささぎ)に拝礼して「世界平和」を祈り、帰途に着きました。
季節がら、菊が大輪の花を咲かせており、平穏な気分になりましたが常に世の中もこうあってもらいたいものです。
弥栄