REIWAに「弥栄!」

    平成の30年間、サラリーマンとして仕事に生きてきました。 REIWAに入って生き様を見直しながら日々、雑感したことを書き連ねます。

還暦でもらったお酒 「望」

とうとう・・・

私もこの5月で還暦を迎えてしまいました。

 

今までは、

「あまり歳をとりたくないものだ」

ということで、誕生日には周りから祝ってもらうことを避けていましたが、

 

今回は特別。

家族も総出で、私の還暦のお祝いをしてくれました。

初めて入る店で、肉系の料理を堪能した後に、

最後にコーヒーと一緒に出てきたのが・・・

 

 

 

どうです! いいでしょ?

結局、あまりの嬉しさに珍しく飲みすぎて、

帰りはタクシーで自宅へ・・・

なんてことになりましたが、

 

「子供たちが成人して一緒にお酒を飲める」

というのは嬉しいものですね。

 

引き続き、家族全員と和気あいあいと一緒にお酒を飲めるように

「体調管理をしっかりしていかないといけない」

と痛感させられた夜でした。

 

今回のお祝いでは、還暦にちなんで

「赤トレーナー」

ももらいましたが、

 

なんと言っても嬉しかったのは、

娘からもらった日本酒・・・

 

栃木県 外池酒造の「望」

なんと言っても

「岡山の雄町米」

醸造した純米大吟醸です!

 

雄町米の日本酒を久しぶりに飲みましたが・・・

フルーティーで美味しいです!

 

還暦を迎えて一度、「生まれ変わった自分」として心に留めておくことは、

・飲みすぎない

・いつも元気でいる

・これからも今まで通り自由に楽しんで過ごす

と言ったところでしょうか。

 

加えて今回、

家族から祝ってもらって、出てきたことは、

「常に希望を持って、希望に向かって邁進していく自分でいること」

にコミットしていきます。

 

こんな姿を子供達・周りの人たちが見て、

「よし、私も頑張ろう!」

なんて感じてくれると嬉しいものですよね。

 

常に若々しく、

最後は「ピンピンコロリ」でいきたいものです。

 

これから還暦を迎える方、

「これからはどうやって次世代の人たちに、人生の大先輩である自身の経験を伝えていくことができるのか」

 

5年後、10年後の自分のありたい姿を想像して、その姿に向かって一歩一歩進んでいく生き方をしてみませんか?

 

弥栄

Goldと北斗の拳

ロシアーウクライナ戦争が関係していると言われていますが、コモディティーの価格が上がっていますね。

 

身近なところでは、ガソリン・電気代・食料品の価格ですね。

 

その中で、金の価格が過去最高になっているとか・・・

 

gold.tanaka.co.jp

 

これは、要因として「世界の通貨の価値が落ちている」・・・

 

確かに米国・EUを中心とした国がウクライナに多量の武器・資金を提供してロシアと戦うわけですから、作った武器弾薬を消費して街を壊し、人を殺めているわけですから、「生産性」といった観点から見ると全く意味のないことにお金を使っているわけで、通貨の価値が下落するのも頷けますよね。

 

結局、儲かるのは兵器製造会社ということでしょうか??

 

世界中がこんなにすごいことになっていますが、

国民に納得できるような説明を、マスコミは報道しませんね。

 

そんな気分である日、デパートに入って見つけたもの・・・

 

金のラオウ登場!

アーノルド・シャワルツ・ネッガー

ではありませんよ!

 

 

横の看板には・・・

 

1983年の連載開始から2023年で40周年を迎える『北斗の拳

 

40周年を記念し、

 

「我が生涯に一片の悔いなし!!」

と、名言を残した世紀末覇者ラオウ

 

”最後のシーン”

 

を金箔約2,000枚を使用した等身大の黄金像としてリアルに再現しました。

 

だと。

 

ちなみに金箔一枚の重さは・・・

ざっくり0.035gとのことなので、

0.035(g)x2,000(枚)=70g

今、最高値の金の価格をgあたり9,700円とすると・・・ 

金箔の材料費は・・・

 

68万円なり

銭ゲバの方々はここで、

 

「このラオウを買いたいんだけど、手に入れる方法はないか?」

なんて考えそうですが、その前に、

 

「なぜ、ラオウの最後のシーンをこのような像にしたのか?」

 

作者の意図を考えてみました。

 

理解を深めるために・・・・

ラオウケンシロウの最後の戦いのシーンは↓

ぜひ、みてみてください!

 

www.youtube.com

 

ケンシロウのように命をかけて戦っている相手を

「友」

と呼ぶことができる人はいますか??

 

ラオウは弟分であるケンシロウを相手に戦った結果、

最後に愛を体感することができたからこそ、

「我が人生に一片の悔いはない」

と言えたのではないでしょうか?

 

この後、ラオウを倒したケンシロウに対してユリアは、

 

「恐怖による統治には本当の安らぎはありません。」

ラオウは愛を持つものに倒されることで、この荒野に再び温かい光が訪れることを願っていたはずです。」

 

といっています。

 

G7の場において、

原爆を落とされた広島にウクライナの首相であるゼレンスキーを呼んで、ロシアと戦い続ける表明をする前に、

この無駄な戦争を早期に終結させるために・・・

「日本の総理には頑張ってもらいたいなぁ。」

と感じるのは私だけでしょうか?

やっぱり、ケンシロウのような心を持つ日本人にこの国の舵を握ってもらいたいものです。

 

国民のためにも・・・

 

弥栄

流鏑馬 〜鹿島神宮にて〜

鹿島神宮は過去にもブログで書いたことがありますが、今回は流鏑馬に遭遇しましたので、合わせてお話ししたいと思います。

 

私の鹿島神宮のブログは↓

524syuzoku.hatenablog.com

 

さて、鹿島神宮の入り口あたり、「二の鳥居」に来ましたが、実は「一の鳥居」はずっと西側の海に面したところにあるんですね。

実は香取神宮も同じように「一の鳥居」は神社から北側の海に面した場所にあります。

チャンスがあれば、どちらも行ってみたいと思います。

 

鹿島神宮 二の鳥居あたり

流鏑馬が始まる前に前回、参拝した時に修繕中だった奥宮と手水舎を参ってきました。

やはり、参拝すると気分が引き締まりますね。

 

 

奥宮も改装が完了!

さて、流鏑馬です。

流鏑馬の歴史は、飛鳥時代から五石豊穣・無病息災を祈願した神事としてスタートしました。

 

www.famille-kazokusou.com

 

鹿島神宮のマップを見ていただくとわかりやすいと思いますが、

流鏑馬は、二の鳥居から本殿を過ぎて、細石あたりから奥宮までの東西に伸びた奥参道に沿って馬を走らせて行われています。

 

鹿島神宮は、奥参道が東西にまっすぐに伸びていて本殿と奥宮が、その道に面したところに北を向いて建っていることに気づきましたが、普通の神社とは建て付けが違っていることや、奥宮のさらに奥にある御手洗池からコンコンと水が湧き出しているところから見ても、神宮ができるよりも、はるか昔、縄文時代から・・・

 

太陽を信仰する海洋民族型の古代人が、海から上陸、生活に必要な水源を見つけ、そこを生活の拠点にしながら日本各地を海路で移動して、その土地土地で集落・村を作って行ったのが、今の日本を形作ってきたもとであり、この鹿島神宮のあたりは、その先駆けとしての聖地

だったのだろうなぁを感じざるおえません。

 

鹿島神宮の詳細の地図は↓

kashima-ibaraki.mypl.net

 

流鏑馬の馬は奥宮から本殿に向かって走り、その馬上から3本の鏑矢を射ちます。

射手は7名、各々が3つの的にむけて3本の鏑矢を放っていくのですが、やはり雨の後で若干、ぬかるんだ道を馬が早足で駆ける馬上から的を射抜くのは難しいようで、多くの射手は1−2つの的に当てるのが精一杯の感じでした。

 

最後の7人目の射手ですが、

他の方よりもご年配で、馬との相性も良さそうな方が、見事に3つの的を撃ち抜いてくれました。

お見事! 3つの的を射抜いてドヤ顔の射手さん

www.youtube.com

 

最後に関係者が集まって記念撮影です。

ありがとうございました。

来年も機会があれば是非みてみたいものです。

スタッフの皆さん全員で記念撮影

弥栄

流鏑馬を見る前に・・・ 〜ワットパクナム寺院別館〜

GWに鹿島神宮流鏑馬(やぶさめ)を見に行く道中で発見した

「タイ風寺院」の報告をしたいと思います。

鹿島神宮に向かって走る道中に変わった建物が・・・・

接近してみたところ、発見したモニュメント(?)が・・・・

寺院の名前は「ワットパクナム別院」とのこと。

寺院入り口にあるモニュメント(?)

なぜか自転車が置いてあったので、個人的にはベトナムを連想してしまいます。

 

というのは、過去に何度かホーチミンには行ったことがあるので・・・

アオザイの女性と自転車

この写真は古すぎで、庶民の移動手段は、今は自転車⇨バイクが中心ですね。

 

話を戻して、寺院の中に入っていくと、

お堂のようなものがあって、その中は・・・

ワットパクナクナム寺院の創始者??

外にかけてある全ての看板は、タイ語らしき文字で埋め尽くされていたので、全く意味がわかりませんでしたが、ここに入ると、蝋燭や線香があり、それらに火をつけて参拝できるようになっていました。

 

室内に入る際はもちろん土足厳禁です。

 

説明書きでは、線香と一緒に金箔がセットになっていて、

「金箔をワットパクナム像に貼り付けると、ご利益がある」

と日本語で書いてありましたが、金箔がどこにあるかわからず、お線香だけをあげさせてもらって本堂を出ました。

 

そのすぐ横に・・・

本殿(?)登場!!

どうですか?

ライオンと象が狛犬の役割をしているように見えませんか?

右側のライオンは「あ」と言っているように大きく口を開けているのも神社の狛犬に習ったのでしょうか。

 

実は、この建物の周りには、干支にちなんだ動物の彫刻がグルリと建物の周りにあるのですが、ここの像だけは別世界です。

 

しかもこの中に入場可能(無料で!)なんですよ!

靴を脱いで、心を清めて、入場させていただきました。

 

中に入ると・・・

 

本殿の内部に潜入

四方の壁から天井までびっしりと絵と模様が描かれていましたので、これからタイに遊びに行こうと考えている人は、格安でタイに行った気分で、ここを訪問してみてください。

 

この日は、観光客がほとんどいなかったので、ど真ん中でゴロ寝できれば、完全に気分は「タイ人」になれると思います。

 

ちなみに本家のワットパクナムはこんな感じだそうです。

www.thailandtravel.or.jp

 

ため息が出そうなほど、美しいですね。

その他、事務所・食堂・研修施設のような建物があり、明らかにタイで日本に住んでいる方たちがお仕事をされているようにも見えました。

 

次回は鹿島神宮流鏑馬です。

 

弥栄

 

 

成田を味わう 〜番外編 芝山〜

前々回お話しした航空科学博物館から、さらに少しばかり南に車を走らせると芝山町立芝山古墳はにわ博物館」があります。

 

現地に向かう道路の名前はなんと・・・

「はにわ道路」

ですよ。

 

近くにはなんと

「はにわ台団地」

なんてのもあります。

 

全てが「はにわづくし」という感じの芝山町ですが、

 

博物館の入り口はこんな感じです。

芝山古墳はにわ博物館の入口

よく見ると入り口は、石で組み上げた竪穴式の入り口になっていますね。

入り口は天井が低いので、背の高い方は頭をぶつけないようご注意を!

 

ここに入る前は、よくある田舎のちょっとした博物館かと思っていましたが、全く違っていて古代の千葉県の姿をはっきりと感じ取ることができる素晴らしい博物館でした。

 

下の地図にあるように、千葉県にはたくさんの古墳が存在していることも今回初めて知ることができ、衝撃を受けました

 

古墳の地図

この博物館から一番近くにある古墳が、殿塚姫塚ですが、博物館からは車で5分ほどの距離にあります。

 

姫塚の周りに置かれていた埴輪が・・・

姫塚の周りに置かれていた埴輪たち

こんなに大きな埴輪がしかも、ほぼ完璧な形で発掘されているのは驚愕ですし、この埴輪から当時の人たちの生活ぶりが反映されていて、そこから当時の人々の生活ぶりを想像するのは楽しいですね。

 

埴輪を見てみると、まずは馬の埴輪があることから見ても当時、この古墳が造られた5世紀には千葉の大地では馬が飼育されていて、馬たちが悠々と暮らしていたことがわかります。

 

これって、前回のブログでお話しした通り、江戸時代に馬を放牧していて、それを軍馬として育てていたことと繋がってきます。

 

次に当時の人々の姿ですが・・・

芝山町では毎年11月に、「はにわ祭」を行なっていますが、その時に祭りに参加している人が扮している姿が↓のようになります。

www.haniwakan.com

 

この祭りに参加している方々の姿は、なんとなく縄文人の末裔といった感じを受けるのですが・・・

 

この埴輪の姿は縄文人というよりも・・・

 

参照は https://jp.quora.com/ユダヤ教徒の男性のもみあげが-ロングヘアーならぬ

 

そうなんです。

ユダヤの方の正装に近いと感じる方は多いかと思います。

 

古代の日本人とユダヤ人とのつながり。

 

こうした史跡を見ていると、かなり昔から何かつながりがありそうですね。

 

こうして世界中の史跡を繋いでいくことで、

 

世界視点で歴史がどのように動いていたか?

 

について探索していくことは、本当に面白いと感じています。

こうした探索をすることで、

自身のご先祖さまは、歴史の中でどのように関わっていって、自分の血につながっているのかについて思いを馳せるのも面白いと思いませんか?

 

感動のあまり、博物館を見学した後に、「殿塚」と「姫塚」に行ってみましたが、草に覆われた場所に山が盛り上がっているところに看板が立っているだけでした。

この山の向こう側で、たくさん埴輪が発掘されてようです。

人気が全くないので、この場に佇んで当時の様子を思い巡らせるのも良いのでなないでしょうか?

姫塚

弥栄

 

 

成田を味わう 〜 三里塚

前回は「三里塚闘争」について触れましたが、三里塚のエリアは空港のほんの南側の一部であったことはご存知でしょうか?

 

しかもここはあの、明治の偉人である大久保利通の肝入りで建設した畜産施設が後々、

 

御料牧場

 

となっていた場所が空港に転用されたのです。

大久保利通といえば・・・↓の方ですよ。

大久保利通の肖像

大久保利通は当初、

「国内で羊毛による織物を生産する。」

を旗印に掲げ、まずは羊を輸入して、畜産技術をアメリカから持ち込みました。 

 

なので、空港が建設される前、この辺りにはジンギスカン料理店がかなり多かったそうです。

その後、この辺りは元々、馬の放牧が盛んだったこともあり、イギリスから種馬を持ち込んで競走馬の育成も進められていました。

 

御料牧場というからには天皇陛下もお見えになったのだろうと思う方もいるでしょうが、まさにここには明治天皇大正天皇昭和天皇が訪問されていますが、成田空港の建設に合わせて、昭和44年に栃木県塩谷高根沢町に移転しました。

 

こうした歴史を残していくために三里塚に、三里塚記念公園があり、その中に三里塚御料牧場記念館が建っています。

www.city.narita.chiba.jp

 

この近くにある「貴賓館」の造りが面白く、外から見ると正面は日本風で、中は和風の奥の間があり、北側は洋風で中にはギリシャ様式のホールがある屋根は瓦葺きの建物になっています。

・・・・

イメージがわかない方に参考になる写真は↓にありますね。

三里塚記念公園 貴賓館 | 趣味の案件

 

先ほど、

「馬の放牧が盛んだった」

と書きましたが、

御料牧場ができる前の江戸時代・・・

 

当時の房総半島は「千葉野」と言って、幕府によって牧が置かれて軍馬の育成が行われていたそうです。 

この牧の馬は幕府が任命した牧士(もくし)が管理しており、年に一回、これらの馬を囲いの中に追い込み、その中から優れた馬を捉えて幕府に献上、軍馬として調教させたそうです。

ちなみに三里塚のあたりは「取香牧」というエリアだったとのこと。

牧士の話は↓に詳しく話がされていますので、お時間ある方はご覧ください。

www.youtube.com

この御料牧場が戦後、徐々に土地を払い下げていった場所に沖縄に帰ることができなくなった人や、外地から帰国した人たちが土地を開墾して農業を始めたことで、就農者人口が増加、その後、成田空港の建設が突然、決定し農民と国との対立がスタートしたわけですね。

 

次回は番外編となりますが、お隣の芝山の話です。

 

弥栄

 

 

成田を味わう 〜 成田空港 空と大地の歴史館

成田国際空港の「負の部分」といえば、私が子供の頃にTVで見た「三里塚闘争」で空港建設反対派と機動隊がぶつかり合うシーンが思い起こされます。

 

この「成田空港 空と大地の歴史館」は、成田国際空港の建設をめぐり、この土地に刻まれた歴史を後世に伝える役目を持って建てられた歴史館です。

 

もらったパンフレットには・・・

成田空港は1966年7月4日に成田市三里塚に建設されることとなりました。

その時から、地域を守ろうと空港建設に必死に反対した農民やその支援者、日本のために必死に新空港を建設しようとした人々、そして、対立の周囲にいた住民たちの苦悩の歴史が始まり、力と力の対立の中で犠牲を伴いました。

その後、建設側と反対側との公開討論を経て、成田空港問題について地域も巻き込んだ話し合いが進んでいきます。

地域と空港をめぐる歴史的経緯と、そこに関わったさまざまな人々の苦悩と想い、これらを複眼的な視点から捉え、この地に刻まれた歴史をできるだけ正確に後世に伝えていくことを目指して当館は設立されました。

とあります。

 

大まかなストーリーを知るなら、尾瀬あきらの「僕の村の話」という漫画がわかりやすいかと思います。 尾瀬あきら自身は、「この本はフィクションである。」と言っていますが、この歴史館で得られる情報と大きく違うものではありません。(もちろん、登場人物や地名は違っていますが)

[尾瀬あきら]のぼくの村の話(1) (モーニングコミックス)

https://www.amazon.co.jp/ぼくの村の話(1)-モーニングコミックス-尾瀬あきら-ebook/dp/B00B8EX5PO   より

 

開港までに、警察官3名が火炎瓶を受けて死亡・反対派の農家の若者が自殺・・・・

等、反対派の中に当時、学生運動で暴れていた面々(中核派全学連等)が反対派の農民たちの味方をする立場に入り込み、より過激で暴力的な行動に出たことが、今でも禍根を残していると思っていました。

 

今回、見学してみてわかったことは、国際空港の用地としては他のエリアがいくつか候補に上がっていたにも関わらず突然、成田に決まってしまったこと、当時、この場所の住民には全く情報がないまま、土地の測量、工事を開始しようとしたという、閣議決定金科玉条とした住民との会話を蔑ろにした工事着工が大きな原因であることがわかりました。

 

昭和46年のニュースです。 

成田空港の闘争の部分は、最初の3分ほどですが興味があれば見てみて下さい

www.nicovideo.jp

この

「住民との会話を行わずに政策を推し進めようとしている」姿・・・

今の政治の進め方によく似ているように感じるのですが、皆さんはいかがお考えでしょうか?

 

弥栄