REIWAに「弥栄!」

    平成の30年間、サラリーマンとして仕事に生きてきました。 REIWAに入って生き様を見直しながら日々、雑感したことを書き連ねます。

寺野東遺跡  〜おやま縄文まつりの広場〜

今日は、縄文時代の集落のお話です。

栃木県小山市小山駅から水戸線で2駅行ったところに「結城」という駅があります。

この駅から歩いて30分ほどの場所にあるのが寺野東遺跡です。

この辺りで、1990年代に工業団地造成に伴う発掘調査が行われましたが調査の結果、旧石器時代から平安時代までのムラや墓地であったことがわかりました。

確かに遺跡の周りは工場が立ち並んでいましたが、この辺りに旧石器時代からなんと平安時代までムラがあったというのは驚きでした。

パンフレットによると32,000年前(旧石器時代)から人々が住み始めたようですが、遺跡を散策すると盆地を切り開いていて「とても気の良い場所」だと感じましたし、湧水地があったことで水を得ることができたこと、木々が多くて木の実も豊富だったことが古代の民族にとってかなり長い期間住みやすい場所だったんでしょうね・・・

 

以降、時代別にまとめてみると・・・

縄文時代 中期前半から後半(4,600〜4,300年前):

東側の大地に径190mの範囲の大きなムラが営まれ、竪穴住居跡約74軒と、木の実などを蓄えた袋状土杭がたくさん見つかった。

縄文時代 後期初頭(4,000年前):

ムラの規模は小さくなり、やがて低いところに営まれるようになりました。

この頃に水場遺構が作られましたが、この遺構は木の実のアク抜きを目的とした、水さらしの施設であり、後期には谷の水を積極的に利用し始めた。

縄文後期前半〜後半(3,800〜3,000年前):

ムラは谷の東西に営まれ、東側には関東地方では初めて確認された巨大な環状盛土遺構が作られます。 また、谷の小川から見つかった木組遺構は、多くが後期後半から晩期にかけて作られた。

縄文晩期(3,000〜2,300年前):

ムラは環状盛土遺構内側の削られた部分に営まれました。

小川の中にはひときわ大きな木組遺構が作られました。大型の木組遺構は、トチの実のアクを取り除くための施設と考えられます。

f:id:syuzoku_524:20211204222425j:plain

縄文時代の遺構

遺構の図を見ると盛土が半分削られたみたいになっていますが、これは河川の侵食や用水を引いたことで削られてしまっていて、元々は丸く盛土が作られていたのでしょうね。

そう考えると、その真ん中に「石敷台状遺構」があって、これは当時のムラの住人にとって何か役割を持っていたのでしょうね・・・UFOでも呼んだのでしょうか?

あと、川の中に木を組んで、木の実の洗い場を作っていたようですが当時使っていた木が水の中に保存されていました。 木ってしっかり保存すると何万年も持つものだと痛感しました。

 

これは、この遺跡から発掘された縄文中期の土器です。

縄文土器って、後期よりも中期のものの方が複雑で芸術的な作りだと思っていましたが、やはり中期に作られたものは美しい形をしています。

縄文後期に入ると、今でいう弥生式土器のように単純なつくりになっていました。

f:id:syuzoku_524:20211204224531j:plain

縄文中期の土器

ところで縄文土器のフォルムがこんなに複雑なのは、中に入れたものが腐敗しにくくなるような構造になっているためだということを聞きましたが・・・

こんな土器にお酒を入れて飲むと味が良くなるかもしれませんし、昔ブログに載せた縄文菌は縄文土器から抽出したものだという噂もあります。

私は今でもオレンジジュースを縄文菌で発酵させて飲んでおります。

 

524syuzoku.hatenablog.com

そういえば、今度日本酒に入れてみようかな・・・

弥栄