紫電改と聞いて何をイメージしますか?
・毛生え薬
・大東亜戦争末期に活躍した戦闘機
今回は戦闘機についての話題です。
(毛生え薬に関しては個別にお調べください。)
実はこの戦闘機は世界に4機だけ残されており、3機はアメリカ(オハイオ州空軍博物館、スミソニアン博物館、ネーバル アビエーション ミュージアム)に、1機は機体だけですが、宇和島展望タワーの近くにある「紫電改展示館」に設置されています。
上の写真は展示館の前にある石碑です。
展示館は足摺宇和海国立公園を一望できる景色の良い馬瀬山の高台にあります。
東京・大阪からは、なかなか行くことのないところですが、JR松山から南に2時間ほど特急宇和海に乗り、終着駅で到着するのが宇和島です。
そこから1時間半ほど、車で更に南下すると現在、日本には一機しか残っていない「紫電改」が展示されています。
戦闘機については、「ゼロ戦」が有名ですが、当初の海軍機の名称の付け方は、皇紀(神武天皇即位紀元年数)の十の位以下に機種名を組み合わせたものを使っていました。
例えば、
艦上戦闘機は皇紀2600年に開発されたので「ゼロ式艦上戦闘機」(零戦)
艦上爆撃機は皇紀2599年に開発されたので「99式艦上爆撃機」
となります。
このルールは戦中に変更されて、気象にちなんだ名称をつけることになりました。
例えば、
戦闘機には「風」
陸上・局地戦闘機には「電・雷」
偵察機には「雲」
爆撃機には「星」
特別攻撃機には「花」
爆撃機に関しては芙蓉部隊が夜襲に使っていた爆撃機の名前が「彗星」でした。
話を戻して紫電改の紫ですが、紫は高貴な色として用いられてきたのでこの「紫電」は『冴えた稲妻」、「速いさま」、「鋭い眼光」を表現しています。最後の「改」は「紫電」の改良型という意味です。
この紫電改ですが、高性能の戦闘機であったため戦後、米軍が全てアメリカに持ち帰り、3機を展示する以外は全て処分してしまいました。
グラマン機がかなり打ち落される程、馬力が同等であったことに加えて運動性能(小回りがきく)が高い戦闘機で、当時の米国はこの技術を全て手に入れてから全て処分したようです。
こうした戦闘機に対する日本の開発力の高さが戦後、日本に飛行機を作らせないように圧力をかけた原因でしょうね。
では、なぜここに一機の「紫電改」が展示されているのか?
ですが
この戦闘機は、1953年11月にあるダイバーが海底40メートルで原型のまま沈んでいる戦闘機を発見、翌年7月14日、34年ぶりに海底から引き上げられました。
それを原型のままで修復を行い展示されています。
この戦闘機は昭和20年7月24日に長崎県の大村基地を飛び立った未帰還機6機のうちの1機とみられており、6名のうちの誰が乗っていたものかは特定されていません。
今回、引き上げ当時の写真をいただきましたのでご覧ください。
では、展示されている「紫電改」の写真をどうぞ。
この正面の写真のプロペラの下に写っている方、6名が昭和20年7月24日に大分の大村基地を飛び立った未帰還機6機のパイロットの方々の写真です。
今回は未帰還機6機のパイロットを偲んで合唱。
次回も紫電改にまつわるお話の続きでいきたいと思います
弥栄