REIWAに「弥栄!」

    平成の30年間、サラリーマンとして仕事に生きてきました。 REIWAに入って生き様を見直しながら日々、雑感したことを書き連ねます。

東国三社巡り(1)元息栖神社と息栖神社

東国三社巡りですが、先ずは息栖神社です。

ここは元々は別の場所にあったところから移転されたとのことで、先ずは息栖神社跡へ。

すでに神社は取り壊されていて石碑が立っている横に息栖神社跡の説明書があるだけです。

 

元息栖神社跡 (息栖神社跡)

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元息栖神社があった場所・・・今は碑が建っている

息栖神社の歴史と書かれた看板があるのですが、そこには・・・
現在の息栖神社は、その昔、日川に鎮座していました祠を大同2年(807年)、右大臣藤原内麿が詔勅により現在の息栖神社に遷座したとされております。 

日川地区に鎮座していた当時の息栖神社がなんと言う名前で呼ばれていたかについては定かではないですが、史書「三代実録」には、「仁和元年(885年)「於岐都説神(おきせつのかみ)」従五位下を授けられる。」と記されており、これが旧息栖神社のことではないかと推定されています。

この祭神の名称からは、川の中洲、水辺に位置する神社という印象が想起されますが、このことは、祭神が岐神(くなどのかみ)天鳥船神(あまのとりふねのかみ)、住吉三神(上筒男、中筒男、底筒男)と言う、海にまつわる神々である事に結びつきます。

事実、日川地区内の遺跡からは平安時代の遺物等が発見されており、この神社を祀り、水上交通の安全を祈願したと思われる人々が居住していたことが確認されています。

 

ここから海までは300メートルほどありそうですが、ここで霞ヶ浦に入ってくる船を臨検していたそうです。現代で言うと税関のような機能でしょうか。

 

と言うのは、当時の霞ヶ浦は、利根川とも繋がっていて茨城⇨東京・群馬あたりまで水路でつながっていたようです。そのため、この水路から入ってくると関東一円に船で乗りつけることができるので、治安維持の観点もあってここを通る船は武器等を乗せていないかしっかりとチェックされて入国させていたのでしょうね。

 

さて、本丸の息栖神社です。

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説明書には、

息栖神社は、古くは日川に鎮座していた祠を、大同二年、右大臣藤原内麿の命により現在地の息栖に鎮座したと伝承されている。

史書「三代実録」にある「仁和元年三月十日乙丑條、援常陸国 正六位上 於岐都神従五位下」の於岐都神とは息栖神社のこととされている。

古来より鹿島・香取との関係は深く、鎌倉時代鹿島神宮の社僧の記した「鹿島宮社例伝記」、室町時代の「鹿島宮年中行事」には祭例等で鹿島神宮と密接な関係にあったことが記されている。

祭神は現在岐神・天鳥船神・住吉三神とされ、海上守護・交通樹後の守り神と奉られている。

江戸時代には主神を気伊吹戸主神と記しているものもあり、境内にある芭蕉の句碑「此里は気伊吹戸主の風寒し」はその関連を物語っていると思われる。

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息栖神社の地図

 

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忍潮井

この神社で面白いのは一ノ鳥居は海に面しているのですが、その両脇に井戸があってコンコンと真水が湧き出しています。中を覗くと錦鯉が悠々と泳いでいて、まさに真水であることを証明をしていました。
船の隣県が終了して帰港したのち、次の外洋航海に向けて、ここで真水を補給して航海に出て行ったのでしょうね。

そう言う意味では主祭神が天の鳥船ということもよくわかります。

写真には入れませんでしたが、参道の常夜灯には、鹿を彫っているものがありましたので、この後に回った鹿島神宮も含めて考えると、東国三社はイスラエルともなんらかの関係があったのかもしれません。

 

弥栄

東国三社巡り(2)於岐都説(おきつせ)神社

前回の息栖神社の趣意書にありましたが、息栖神社に関係の深い於岐都説(おきつせ)神社にも行きました。

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於岐都説神社

この於岐都説神社の本殿ですが、息栖神社に元々あった御神体が、天の鳥船を主祭神として祀る際に放り出されたものを、そのまま移動して組み立てたとされているのが、この神社の本殿とのことです。

そう言う意味では、かなり重要な神社であるにもかかわらず、今や神主もいない状態になっているということで、なんとか存続してもらいたい神社だと思います。

本殿は下の写真になります。

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さて、この神社には説明書がないので、主祭神について以下の通り考えてみました。

 

524syuzoku.hatenablog.com

 

前回のブログに書きましたように、息栖神社の説明書には、

・・・江戸時代には主神を気伊吹戸主神と記しているものもあり、境内にある芭蕉の句碑「此里は気伊吹戸主の風寒し」はその関連を物語っていると思われる。

とあります。

 

だとすると、この於岐都説神社には、息栖神社(元々は於岐都説神社と言う名前??)が、天の鳥船を主祭神として祀り始めた時(多分、江戸時代の頃)に息栖神社から放り出された御神体が「祓いの神、気伊吹戸主神」であったのではないかと考えます。

更に本殿は鰹木が5本(男神)、千木が地面に水平(女神)に切っているところから、気伊吹戸主神に加えて、祓いの女性神も祀られている?? 

とすると・・・・

私の見立てですが、多分、ここには祓いに関した強力な力を持っている瀬織津姫も祀られているのではないでしょうか?

ちなみに於岐都説(おきつせ)神社と東国三社の位置関係を示した地図を入れておきます。於岐都説神社と東国三社との距離ですが、割と離れているのですが、大祓をしてみたい方は一度詣られたらよいのではないでしょうか。

息栖神社を日川から移動させたことで、結果として東国三社の位置関係が二等辺三角形となりました。

このあたりは、熊本あたりまで伸びている中央構造線の端っこを抑える場所となっていることで地震対策でも講じていたのでしょうか?

 

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http://mahoranokaze.com/blog-entry-657.html から転載

 

弥栄

洲崎神社と洲宮神社 〜合わせて南房総の安寧を祈る神社〜

今回は洲崎・洲宮神社のセットでアップしたいと思います。

 

まず、洲崎神社

洲崎神社は、東京湾の出入口を見下ろす場所であることから、古来、漁師にとっての漁業神、船乗りにとっての航海神でした。

祭神は天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)といい、安房開拓神話に出てくる忌部(いんべ)一族の祖神天太玉命(あめのふとだまのみこと)の后神(きさきがみ)です。

標高110mの御手洗山中腹に鎮座し、太平洋を一望できるほか、浜鳥居(一の鳥居)から富士山を眺めることもできます。

洲宮神社安房神社の位置関係ですが、下のようになっています。

思いっきり富士山が見えそうな場所にありますよね。

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鳥居を抜けて行って山門を抜けると・・・

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洲崎神社山門
長い階段が・・・

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本殿までの長い階段
この階段を登るのは結構大変でしたが、この先には鳥居から富士山を一望でき、源頼朝公が腰かけたという松があります。
 
この洲崎神社で有名なのが、「洲崎踊り」だそうです。以下、説明書をまとめると・・・
この芸能は、千葉県館山市洲崎の洲崎神社の神社例祭の祭りのおり(六月十三日、八月二十から二十二日)に行われるもので、風流小歌踊の系統に属する弥勒踊(みろくおどり)と鹿島踊(かしまおどり)とからなっている。
踊り手は基本的には小学生・中学生の女子が中心で舞うようです。
 踊りはいずれも音頭取と締太鼓の回りを輪になって踊るもので、弥勒踊では右手に扇子、左手に持つオンベを肩にし、四肢をからませながら豊富な振りと動きをもって踊る。
一方、鹿島踊はオンベを足もとに置き、編笠をかぶり、右手に扇子をもつが、動きは少なく単純な所作の繰り返しで踊られる。
この二つの踊りは、いずれも海の安全を司る鹿島の神に関係しており、「鹿島踊」は鹿島の神人が一年の吉凶を告げ歩く「事触れ」に由来するもので、悪霊祓いを目的としている。
一方、「弥勒踊」は世直しを願う念仏踊りの系譜にあたり、弥勒が遠い海の彼方から訪れ、豊作をもたらすという内容になっている。
「鹿島踊」そのものは、相模湾西岸(神奈川県小田原市から静岡県加茂郡東伊豆町)にも分布していますが、歌詞などが似ている一方で、相模湾西岸は男性の踊り、安房地方は基本的に女児の踊りと違いがあります。
 
つぎに洲宮神社

同じく安房開拓神話にまつわる神社で、安房神社の祭神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀っています。

西岬の洲崎神社と同神で、洲崎神社が拝所、当社が奥宮であるともいいます。

もとは県道をはさんで反対側の魚尾(とお)山に鎮座していましたが、文永10年(1273年)の火災で焼失したため、現在地に移転しました。しかし現在の境内からも土製の鏡や勾玉・高坏などの祭祀土器が出土しており、遷座した現在地も古代祭祀遺跡であったことがわかります。

写真の右にあるのが、洲宮神社の旧社地にあった魚尾山に祀られていた石宮とのこと。

洲宮神社が火災で消失したしまって、そのまま残されていたそうなのですが、都市開発の関係でここに鎮座するようになったそうです。(真ん中にあるのが新しい石宮)

ということは、御神体は右にある石と言う事になりますね。

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魚尾山(とおやま)の石宮


この神社で有名なのが御田植神事

毎年元旦に洲宮神社前で、その年の豊作を願って行われる儀礼で、羽織袴姿の作男が唱える言葉に従って、まず氏子が竹の鍬で田を耕す所作をします。続いて牛役の物が代かきを行い、作男が籾をまきます。最後に早苗を模した松葉を手に氏子が田植えの所作をして終わりとなります。

ということは、男性神を祀る洲崎神社で女性が神事を行い、女性神を祀る神社では男性が豊作を祈って神事を行うというふうに役割を二つに分けてあたかもお互いを補完しあって一つの神社として機能しているのではないかと感じました。

 

今回、下位松原・布良崎・安房・洲宮・洲崎と南房総の神社を巡りましたが、全ての神社が忌部とのつながりが深い神社であることを感じました。

今の日本人が海外と比較すると手先が器用で、工業製品を作り出す事に長けていると言うのはこうした忌部一族の血をどこかで引き継いでいることが大きな要因なのではないかと感じるのは私だけでしょうか?

 

弥栄

安房神社  〜阿波忌部の足跡を見る〜

今日は房総半島南端にある安房神社です。

由緒書には、

天太玉命主祭神に天比理咩命を配祀として奉斎し、摂社下の宮には天富命を祀る。

本社の祭神天太玉命は中臣祖神天児屋根命と相並んで天照皇太大神の側近に奉仕し祭祀を司どられた重要な神に座します。

天照皇大神が天石窟に御幽居あらせられた時には、天太玉命天児屋根命と共に大神の出御を祷り遂に再び大御神の天日の如き御威徳を仰ぎ奉られたのである。

阿波開拓の神として当社の下の宮に祀らるる天冨命は、天太玉の御孫にあたらせられる。

天富命は四国の阿波国忌部族の一部を割いて関東地方に大移動を起こし、最初に占拠されたのが房総半島の南端、すなわち現在の阿波神社の鎮座地であって茲に本拠を定めて祖神天太玉命の社を立てた後、次第に内地の方に進みこの半島に麻穀を播殖し、その産業地域を広められたのである。

とあります。

やはり、天富命の一行は忌部族を引き連れて四国⇨和歌山⇨房総半島と海流に乗ってやってきたのでしょうね。

ということで相祭神には、

櫛明玉命クシアカルタマノミコト):出雲忌部

天日鷲命(アマノワシノミコト):阿波忌部

彦狭知命ヒコサシリノミコト):紀伊忌部

手置帆負命タオキホオイノミコト):讃岐忌部

天目一箇命(アメノマヒトツノミコト):筑紫・伊勢忌部

と技術者集団がたくさんです。

 

ちなみに境内から離れたところには忌部塚があります。

昭和に入って偶然にも境内内にある洞窟内が発見されてその発掘調査では、人骨22柱が発見されました。

その遺体は弥生以前に遡る時代のものだったそうです。

という意味では、この神社発祥の歴史はかなり古いことが明らかですね。

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忌部塚

この神社、下に境内の図を示しますが、面白いことに

⒈ 鳥居から入って拝殿に向かって行く途中には狛犬がいない

2.厳島社は池に囲まれていない

3.琴平社には狛犬がいる (祭神は大物主)

4.拝殿と本殿に千木・鰹木がある(通常は本殿のみのはず。)

しかも千木は水平(女神)に切ってあり、鰹木が7本(男神)となっている

 

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安房神社の地図

そういえばこの形式に似た神社が和歌山にもありました・・・

淡島神社です。

 

524syuzoku.hatenablog.com

 

神武天皇の時代よりもかなり昔から忌部衆は存在しており、出雲から四国・和歌山を経てこの南房総まで船旅をしながら、各地で土地を切り開き、農工業を発展させたきたのかもしれません。

南房総は忌部によって発展してきたと考えても良いのかも知れませんね。

 

弥栄

 

 

 

 

布良崎(めらさき)神社  〜本当の神輿を発見〜

御由緒には、

主祭神天富命(あまのとみのみこと)を祀り、後に素戔嗚尊金山彦を合祀し、安房神社の前殿(下社)となる。

御祭神天富命は、5世紀、神武天皇の勅命を奉じて沃土を東方に求むべく天太玉命の御霊と四国の忌部氏を率いて紀伊半島伊豆半島を経由しこの房総の地、布良の駒ヶ崎に上陸した。祖神、天太玉命男神山(安房神社御祭神)に安置し、后神天比理刀羊命(洲宮神社御祭神)を女神山に安置し、漸次開拓の歩を進められ北上し特に麻・穀の播殖を奨励し、精錬技術に優れ建築並みに漁業の技術を指導され、衣食住の神として崇敬される。

 

ここで言っている「金山」の意味は、石や岩を切り裂き人たちのことを指しているそうですが、そうだとすると前回の下立松原神社の入り口に削られていた岸壁の洞窟の意味もよくわかりますね。

次に駒ヶ崎はペガサスのことで、八岐大蛇・九尾の狐を退治した神聖なものを指していますが、これは天富命が、技術集団を引き連れて阿波⇨紀伊半島伊豆半島を経由して布良崎神社方面へ。 布良崎神社から見ると、船団は富士山からまっすぐ船でやって来て上陸、山を登ってきた場所に神社を建てた場所がこの地という事になります。

また、布良というのは女性のこと言っていて、その布は十種神宝のうちの一つの布のことを指しており、この布を四国から持ってきたのではないかといわれています。

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布良崎神社から富士山を望む

写真では見にくいかもしれませんが、写真の鳥居の真ん中、電線にかぶったあたりになりますが富士山がはっきり見えました!

 

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本殿ですが、鰹木が7本(男神)、千木が水平に切ってある(女神)を祀っている形になっているのは、天富命主祭神という事にしていますが、神社名が「布良」ということで女性を祀っている部分があるのでしょうね。

また、千木の下から棒が4本づつ伸びていますが、滅多に見かけることはありませんが、これは船のオールを指しているようです。

 

たまたま、運よく神輿を見せていただきました。

ガラスに反射していて見づらいですが、

神輿に鳥居があることで神様をお乗せする台座になっている

・その上にがついていて、神輿で回った場所を祓い清めている

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鳥居&鈴つきのお神輿

ということで、昔からある本来の神輿を見せていただくことができました。

でも、こんな片田舎に立派な神輿があるとは驚きでした・・・

布良崎神社・・・

なかなか見応えがありますよ。

 

弥栄

 

下立松原神社と源頼朝

久しぶりの神社巡りです。

今回は、千葉県房総あたりの神社を回りました。

まずは下立松原神社。

今回気づいたのですが、千葉の房総のあたりは切り立った岩が多くて、山々の木々も岩の上に張り付いているように見えます。

下立松原神社の入り口ですが、写真のように岩の絶壁を掘り込んでいる場所がありました。

何か鉱物を採掘していたのでしょうか? 

それとも隠れ家??

そういえば前回の北陸遠征の時の那谷寺は、翡翠を掘った後の洞窟に石碑を置いていましたね。

 

524syuzoku.hatenablog.com

 

この辺りの地名は白浜と呼ばれていますが、和歌山の南紀白浜との繋がりが深いようですが、これは「忌部」繋がりなのでしょうね。

 

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下立松原神社の参道入り口あたり

この辺りは白浜の頼朝伝説が有名で、「義経記」には以下のような話があります。

平家を倒して源氏の世にしようとした源頼朝は、伊豆の石橋山の合戦に敗れて安房国の平北郡猟島に逃げてきたとあります。 

治承4年(1180年)八月二十九日のことでした。

その後、再起を願う頼朝は、味方を得るために安房国中を精力的に巡回したのですが、白浜にも立ち寄りました。

まず、長尾の滝口大明神(下立松原神社)に参詣し、「宗近」の太刀を奉納して戦勝を祈願すると、海岸つたいに野島につきました。

この下立松原神社の名称ですが、江戸時代以前には「小鷹明神」「瀧口明神」と称していとのことです。

頼朝は、この千葉の地で有力者の千葉氏の力を借りて兵を挙げていき、ついには平氏を壇ノ浦まで追い詰めていく事になりました。そういう意味では千葉氏のことをもっと歴史上で評価すべきだと思うのですが・・・・ 歴史から消されていますね。

ひょっとすると千葉氏と忌部って繋がりがあったのかもしれません。

 

また、この神社では「ミカリ神事」が江戸時代から行われており、天富命らが安房に上陸したとき、当地には鹿が多く住民が困っていたので、鹿狩りをしたという伝承があり、それに因んで旧暦11月26日から10日間、神事として神狩祭が行われています。

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下立松原神社

写真の左右に大きな木が2本立っていますが、これは鳥居を意味しています。

右側の木は切られている状態ですが、左の木は葉っぱが生い茂っていました。昔はこの木にしめ縄が結びつけられていたのではないかと思います。

 

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狛犬(烏帽子をかぶっています)

この狛犬ですが、「あ」(男)の狛犬なのにツノがついているかと思いましたが、「烏帽子」のことだそうです。

古い神社ですと「ん」(女)の狛犬にはファルコンのように「ツノ」がついていますものね。

 

弥栄

 

 

泰平の眠りを覚ます上喜撰・・・・いや参政党!

ご無沙汰しておりました・・・

 

ネタのない男はどうしても詰めてブログを更新する時と間隔が空いてしまう時があるようです。

お許しください・・・

今日は真面目に政治の話。

news.yahoo.co.jp

この記事には、

《ガースー戻ってこい》

《岸田のポンコツ具合が思った以上だわ。コロナ後の大局観もなく決断力は皆無、ガースーほどの実務力もない》

《(岸田首相は)人の意見を聞き過ぎて自分の意志がブレブレなのか、そもそも無いのか。実務が抜群だった菅前総理の足元にも及ばない。ぜひ信念を持って進んで頂きたい》

などと、菅氏と岸田首相を比べる声が目立つ。

・・・

とありましたが、そもそも比べる相手のレベルが低いし、岸田首相がそこまで酷いかはよくわかりませんが、

私が個人的に感じるのは・・・

 

「どちらも何か投げやりに政治家としての本分を全うしている。」

様にしか見えないのではないかということです。

 

特にコロナに関する対策に対する受け答えを聞いていて感じるのは、

「何か他人行儀な、歯に物が挟まったようの話し方をしている。」

と感じるのは、私だけなのでしょうか?

 

そんなふうに感じている中、こんな本を発見しました!

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ちょっと小さいので拡大すると・・・

 

 

この

『国民の眠りを覚ます「参政党」』

という本の題名ですが、明治維新の時にペリーが軍艦四隻で浦賀にやってきて開国を要求した時に歌われたという

「泰平の眠りとを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」

という狂歌をかけて本の題名にしたのでしょうか。

 

この狂歌にでてくる「上喜撰」とは上質のお茶のことで、これを飲むと夜、眠れなくなる。(今でいうカフェインが多かったのでしょうね。)

これと同じように幕府の幕臣たちは、「浦賀に黒船(アメリカの蒸気船)が来たことで、恐れ慄き、夜も眠れなかった」状況をかけており、日本の歴史において「黒船」(実際は蒸気船2隻と帆船2隻)の来航は、日本人にとって衝撃的な出来事であったということを風刺した作品ではないかと思っています。

歴史の教科書にも似た様な説明がありましたよね?

 

ちなみに参政党は2020年4月11日に結党を宣言し、党員募集を開始しました。

そしてこの度、2021年12月22日に参議院議員候補者予定の発表会見を行い、党をあげての選挙を行うことを表明する極めて若い政党です。

 

当日はライブ視聴用URLが視聴可能とのことで、興味のある方はぜひご覧ください。【YouTube
https://youtu.be/aCmdzbFr3cI

【インスタグラム】
https://www.instagram.com/sanseito

 

三十年後の歴史の教科書にこの本のことを指して

「国民の眠りを覚ます参政党 ・・・・・・・」(・・・・はご想像にお任せします。)

なんて狂歌ができると面白いなぁと思いつつ、長々とお付き合いいただきありがとうございました。

 

弥栄