REIWAに「弥栄!」

    平成の30年間、サラリーマンとして仕事に生きてきました。 REIWAに入って生き様を見直しながら日々、雑感したことを書き連ねます。

洲崎神社と洲宮神社 〜合わせて南房総の安寧を祈る神社〜

今回は洲崎・洲宮神社のセットでアップしたいと思います。

 

まず、洲崎神社

洲崎神社は、東京湾の出入口を見下ろす場所であることから、古来、漁師にとっての漁業神、船乗りにとっての航海神でした。

祭神は天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)といい、安房開拓神話に出てくる忌部(いんべ)一族の祖神天太玉命(あめのふとだまのみこと)の后神(きさきがみ)です。

標高110mの御手洗山中腹に鎮座し、太平洋を一望できるほか、浜鳥居(一の鳥居)から富士山を眺めることもできます。

洲宮神社安房神社の位置関係ですが、下のようになっています。

思いっきり富士山が見えそうな場所にありますよね。

page1image2077442112この
鳥居を抜けて行って山門を抜けると・・・

f:id:syuzoku_524:20220102142626j:plain

洲崎神社山門
長い階段が・・・

f:id:syuzoku_524:20220102142730j:plain

本殿までの長い階段
この階段を登るのは結構大変でしたが、この先には鳥居から富士山を一望でき、源頼朝公が腰かけたという松があります。
 
この洲崎神社で有名なのが、「洲崎踊り」だそうです。以下、説明書をまとめると・・・
この芸能は、千葉県館山市洲崎の洲崎神社の神社例祭の祭りのおり(六月十三日、八月二十から二十二日)に行われるもので、風流小歌踊の系統に属する弥勒踊(みろくおどり)と鹿島踊(かしまおどり)とからなっている。
踊り手は基本的には小学生・中学生の女子が中心で舞うようです。
 踊りはいずれも音頭取と締太鼓の回りを輪になって踊るもので、弥勒踊では右手に扇子、左手に持つオンベを肩にし、四肢をからませながら豊富な振りと動きをもって踊る。
一方、鹿島踊はオンベを足もとに置き、編笠をかぶり、右手に扇子をもつが、動きは少なく単純な所作の繰り返しで踊られる。
この二つの踊りは、いずれも海の安全を司る鹿島の神に関係しており、「鹿島踊」は鹿島の神人が一年の吉凶を告げ歩く「事触れ」に由来するもので、悪霊祓いを目的としている。
一方、「弥勒踊」は世直しを願う念仏踊りの系譜にあたり、弥勒が遠い海の彼方から訪れ、豊作をもたらすという内容になっている。
「鹿島踊」そのものは、相模湾西岸(神奈川県小田原市から静岡県加茂郡東伊豆町)にも分布していますが、歌詞などが似ている一方で、相模湾西岸は男性の踊り、安房地方は基本的に女児の踊りと違いがあります。
 
つぎに洲宮神社

同じく安房開拓神話にまつわる神社で、安房神社の祭神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀っています。

西岬の洲崎神社と同神で、洲崎神社が拝所、当社が奥宮であるともいいます。

もとは県道をはさんで反対側の魚尾(とお)山に鎮座していましたが、文永10年(1273年)の火災で焼失したため、現在地に移転しました。しかし現在の境内からも土製の鏡や勾玉・高坏などの祭祀土器が出土しており、遷座した現在地も古代祭祀遺跡であったことがわかります。

写真の右にあるのが、洲宮神社の旧社地にあった魚尾山に祀られていた石宮とのこと。

洲宮神社が火災で消失したしまって、そのまま残されていたそうなのですが、都市開発の関係でここに鎮座するようになったそうです。(真ん中にあるのが新しい石宮)

ということは、御神体は右にある石と言う事になりますね。

f:id:syuzoku_524:20220102202832j:plain

魚尾山(とおやま)の石宮


この神社で有名なのが御田植神事

毎年元旦に洲宮神社前で、その年の豊作を願って行われる儀礼で、羽織袴姿の作男が唱える言葉に従って、まず氏子が竹の鍬で田を耕す所作をします。続いて牛役の物が代かきを行い、作男が籾をまきます。最後に早苗を模した松葉を手に氏子が田植えの所作をして終わりとなります。

ということは、男性神を祀る洲崎神社で女性が神事を行い、女性神を祀る神社では男性が豊作を祈って神事を行うというふうに役割を二つに分けてあたかもお互いを補完しあって一つの神社として機能しているのではないかと感じました。

 

今回、下位松原・布良崎・安房・洲宮・洲崎と南房総の神社を巡りましたが、全ての神社が忌部とのつながりが深い神社であることを感じました。

今の日本人が海外と比較すると手先が器用で、工業製品を作り出す事に長けていると言うのはこうした忌部一族の血をどこかで引き継いでいることが大きな要因なのではないかと感じるのは私だけでしょうか?

 

弥栄