REIWAに「弥栄!」

    平成の30年間、サラリーマンとして仕事に生きてきました。 REIWAに入って生き様を見直しながら日々、雑感したことを書き連ねます。

鳴尾球場

鳴尾球場って大昔の球児の聖地だったのです。

 

阪神タイガースの2軍の練習場は鳴尾浜球場で鳴尾球場とは違います。

鳴尾浜球場 ウイキペディアより

 

甲子園球場から海側に向かって歩くこと20分、海岸に近いところにあるモニュメントです。

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鳴尾球場跡地のモニュメント

モニュメントは1993年に建設され、以下の文章が刻まれています

鳴尾球場跡

全国高等学校選手権大会の前身である全国中等学校優勝学校優勝野球大会は1915年(大正4年)に大阪・豊中球場で産声をあげ、1917年(大正6年)の第3回大会から鳴尾球場に会場を移した。第4回大会は、米騒動のため全国大会は中止されたが、以後、1923年(大正12年)の第9回大会まで6回の大会がこの地で行われた。

鳴尾球場は1907年(明治40年)関西競馬倶楽部(のちの阪神競馬倶楽部)が建設した鳴尾球場をその後、阪神電鉄が借り受け、同場内に開設したものである。走路の内側、約16万5,000平方メートルに2面のフィールドを設け、木造移動式スタンドを周囲に並べて5,000ないし6,000人の観客を収容した。

全国参加校が第1回大会の71校から増加の兆しを見せ、代表校数も10校から次第に増えた。

フィールドが1面の豊中では、5日間の会期で開催が困難になったのが大きな移転の理由である。

鳴尾に移ってから「中等野球」の人気は年ごとに上がり、第6回大会頃から詰め掛ける観客をさばききれなくなった。第9回大会の準決勝、甲陽中学ー立命館中学では、観客が場内に流れ込み、試合続行が一時不可能となる有り様だった。こうした事態が阪神電鉄甲子園球場の建設を決心させた

高校野球の聖地「甲子園」誕生のきっかけとなった鳴尾球場を永久に銘記するため、その跡地に石碑を建設した。

 

と言うことで、当時は甲子園球場から少し離れた場所で大会が開催されていました。

今は、軟式野球を中心にしたグランドになっていますが、やっぱりこうした歴史を知って子供たちにはこうしたグランドで野球をやってもらいたいですね。

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現在のグランド

弥栄