今回は神呪寺(かんのうじ)です。
「神を呪う寺」というのは結構「何かが出てきそうな」名前のお寺ですね
この寺の由来は、淳和天皇が皇太子の頃、その第4妃となられた真名井御前(如意尼)が、複雑な皇居内を後にして、甲山を選んで信仰に入られました。
そして天長8年に弘法大師を請じて大殿を立てられ、その名を神呪寺としたそうです。
真名井御前とは?
この如意尼(のちの真名井御前)は海部直雄豊(あまべのあたいたけとよ)という神官の娘で、彼は彦火明命(ひほのあかりのみこと)の子孫とのこと。 歴代の神呪寺の宮司は代々この系統を受け継いでいるとのことです。
如意尼の幼名は「巌子」(いつこ)といい、10歳にして都に上り、数々の教養を積むかたわら、真言の呪を唱えるのを日課としていた誠に美しく、淑やかな女性であったと言われています。
その後、この教養に富んで美しい真名井御前が気に入った皇太子(のちの淳和天皇)の妃となられた真名井御前(如意尼)ですが、そこでは宮中の複雑な生活に馴染めず、皇居内を後にして、世の中に無情を感じつつ、わざわざ甲山を選んで入山、信仰に入られました。
この時、航路で西宮浜に降り立った真名井御前に対して西宮の地はどうだったかというと・・・
・・・・妃がこの地に来られた時、野には百花咲き乱れ、また地中から五色の雲気が出、向かいの山の前からは大蛾が現れ黒気を吐き、山頂に登れば紫雲が峯にたなびいてきた。
女神が現れて曰く、「よろしく仏宇を建てよ」と言って姿を消したので、そこに廣田神社が建立された・・・・・・
その後、空海が建立した寺に神呪寺と名付けて開祖となりました。
こんな記述があるように、真名井御前ってかなりモテモテかつ、霊力が備わっていた方だったようですね。
でも、神呪寺で尼になったことを考えると、世の中に何か
「呪い」
をかけたいことがあったのでしょうか???
歴史はこの辺にしておいて、
神呪寺の仁王門です
1804年に建立されました。
左右に仁王様が置かれていて、なんとなく禅宗系のお寺のように見えますね
本殿です
本殿の右奥に鎮座している社です。
白菊大明神は菊理比売のことを指しているのでしょうか。
最後は、神戸ではありませんが、新大阪でたこ焼きです
いつもは列を作って買うのですが今回はガラガラ・・・
大阪の経済、はよ復活しいや!
弥栄