前回は「三里塚闘争」について触れましたが、三里塚のエリアは空港のほんの南側の一部であったことはご存知でしょうか?
しかもここはあの、明治の偉人である大久保利通の肝入りで建設した畜産施設が後々、
「御料牧場」
となっていた場所が空港に転用されたのです。
大久保利通といえば・・・↓の方ですよ。
大久保利通は当初、
「国内で羊毛による織物を生産する。」
を旗印に掲げ、まずは羊を輸入して、畜産技術をアメリカから持ち込みました。
なので、空港が建設される前、この辺りにはジンギスカン料理店がかなり多かったそうです。
その後、この辺りは元々、馬の放牧が盛んだったこともあり、イギリスから種馬を持ち込んで競走馬の育成も進められていました。
御料牧場というからには天皇陛下もお見えになったのだろうと思う方もいるでしょうが、まさにここには明治天皇・大正天皇・昭和天皇が訪問されていますが、成田空港の建設に合わせて、昭和44年に栃木県塩谷高根沢町に移転しました。
こうした歴史を残していくために三里塚に、三里塚記念公園があり、その中に「三里塚御料牧場記念館」が建っています。
この近くにある「貴賓館」の造りが面白く、外から見ると正面は日本風で、中は和風の奥の間があり、北側は洋風で中にはギリシャ様式のホールがある屋根は瓦葺きの建物になっています。
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イメージがわかない方に参考になる写真は↓にありますね。
先ほど、
「馬の放牧が盛んだった」
と書きましたが、
御料牧場ができる前の江戸時代・・・
当時の房総半島は「千葉野」と言って、幕府によって牧が置かれて軍馬の育成が行われていたそうです。
この牧の馬は幕府が任命した牧士(もくし)が管理しており、年に一回、これらの馬を囲いの中に追い込み、その中から優れた馬を捉えて幕府に献上、軍馬として調教させたそうです。
ちなみに三里塚のあたりは「取香牧」というエリアだったとのこと。
牧士の話は↓に詳しく話がされていますので、お時間ある方はご覧ください。
この御料牧場が戦後、徐々に土地を払い下げていった場所に沖縄に帰ることができなくなった人や、外地から帰国した人たちが土地を開墾して農業を始めたことで、就農者人口が増加、その後、成田空港の建設が突然、決定し農民と国との対立がスタートしたわけですね。
次回は番外編となりますが、お隣の芝山の話です。
弥栄