コロナショックの関係でしばらく開催されていなかった小名木善行先生が主催されている「倭塾」に参加してきました。
そもそも、3年ほど前に「古事記」の勉強がしたくて(何と言っても、過去には神様の名前が多くて挫折してしまっていました)ネットを検索した結果、当時月一回のペースで開催されている倭塾に参加するようになりました。
小名木善行先生は「ねずさんのひとりごと」というブログを毎日、無料で発信されています。
毎日、かなりのボリュームですので全て読んでいくことは大変かもしれませんが、全ての内容が、「なるほど!」と感じるお話ばかりで、歴史に対して目から鱗の情報が満載ですので、ぜひ読んでみてください。
最近、倭塾は「富岡八幡宮」で開催されているのですが、私は、しばらく不参加でしたので富岡八幡宮に行ったのは今回が初めてでしたが、この話はまた後ほど。
では、本題の能の話に入りたいと思います。
能と言われるとイメージすることは・・・
「能面」のような顔
近くにいませんか?
表情の変わらない人って・・・
能は、
「幽玄で普通の人にはよく分からない」
「言っている言葉がよく分からない」
というイメージがありますし、私もそう思っていました。
ところが、今回の倭塾でそのイメージが一掃されました。
まず、
能は物語になっています。
能は演劇です。
世界で一番古い舞台芸術なんです。
1300年代にできたミュージカルで、単純な物語です。
しかし、
その中に永遠に変わらないテーマがあります。
神仏への信仰
戦いのはかなさ
女性の嫉妬
親子の愛情
はたまた、妖怪退治。
加えて、
この物語が全国の神社で舞われることで、北は東北、南は九州まで地方で使われている方言ではない「共通語」で会話ができるようになったこと、
また、
物語のテーマとなる考え方が、一つの道徳として全国共通で認識されることで
いざ、どこかで国難・自然災害が発生した時に、皆が一つの方向に向かって進んでいける風土が作り上げられていたということです。
ちなみに
江戸時代より前は、武家の子供は子供の頃から能を見て、武士道のなんたるかをまず、心に落とし込んでから四書五経、儒教を学んでいたそうです。
江戸の教育おそるべし・・・というところでしょうか。
子供達は、物心ついた時に能とを見て何を教わったか2つのストーリーから考えて見ましょう。
熊野(ゆや):
熊野(ゆや)は、京の都で、平家の公達で権勢を振るう平宗盛(たいらのむねもり)に仕えています。
ある日、熊野の一家の侍女である朝顔が、母の手紙を持って訪れます。手紙には病状が思わしくなく、今生の別れが来る前に一目でも会いたいという母の願いがしたためられていました。
一刻も猶予はないと熊野は、母の手紙を宗盛に読み聞かせ、帰郷の許しを一心に願います。しかし宗盛は、許すどころか清水寺の花見に同行するように命じます。
春爛漫の中、楽しげな都の人々の様子を見ても、熊野の心は故郷への思い、母への気遣いで沈みがちです。心ならずも酒宴で舞を舞っていると、急に時雨が来て、花を散らしてしまいました。これを見た熊野は、母を思う和歌を一首読み上げました。
その歌はかたくなな宗盛の心に届き、ようやく帰郷が許されます。
というストーリーなのですが、ここで教えられることは「上に立つものは察すること。」
なのです。
鵺(ぬえ):
熊野から京都をめざしていた旅の僧が、川沿いの御堂に泊まることにしました。
夜半、そこに舟が一艘漕ぎ寄せ、怪しげな舟人が現れ、自分は怪物・鵺の亡霊であると明かします。過去に天皇を病魔に陥らせたところ、源頼政に射抜かれ、退治された、という顛末を語り、僧に回向を頼んで夜の波間に消えていきました。
様子を見にきた里人は、改めて頼政の鵺退治の話を語り、退治されて淀川に流された鵺がしばらくこの地に滞留していたと僧に伝えます。
話を聞いた僧が読経して鵺を弔っていると、鵺の亡霊がもとのかたちで姿を現します。鵺の亡霊は、頼政は鵺退治で名を上げ帝より名剣を賜ったが、自分はうつほ舟に押し込められ、暗い水底に流されたと語ります。
そして、山の端にかかる月のように我が身を照らし救い給え、と願いながら成仏していくのでした。
この話のメインテーマは「敵の兵も思いやって弔うこと」なのです。
江戸時代の武家の子供達はこうした形で「能」を小さい頃から鑑賞してこうした考え方を基本にして学問に励んでいたということを知って、改めて日本の教育のすごさを感じるとともに能に対する興味が湧きました。
一度、世の中の「真・善・美」の美を極めるためにも能を鑑賞したいと思いました。
皆さんはいかがでしょうか?
弥栄