今年初めて開催される小名木善行先生の倭塾に参加しました。
ほぼ3時間にわたるお話で
1. 干支から見る令和2年の予測
2. 令和の元号のもとになった歌にみる日本の形
3. 日本とはどのような国柄を持つ国か
についてお話しいただきました。
小名木先生(ねずさん)のブログは下のHPをアクセスしてみてくださいね。
今回は特に2.の中で令和の元号となった万葉集の歌について書いてみたいと思います。
そもそも令和を歌って部分は歌ではないのですが、場所は北九州の太宰府で読まれました。
その当時、太宰府は 大陸からの侵略を防ぐため、北九州地方に赴任した防人が集結していた場所でした。 その太宰府の正月の時期に当時の長官だった柿本人麿の家に防人たちが集まって酒盛りをしている時に読まれた和歌32首の序文の文章から、令和という元号は名付けられました。
太宰府という意味は防衛に関する拠点という意味ではなく、貿易に関わるいわゆる税関的な意味合いでつけられた名前です。
当時、大陸からもたらされるものは交易品だけではなく、船員等が持ち込む伝染病がありました。
例えば、これらの伝染病はコレラ、赤痢、チフスなどが該当するかと思いますが、当時はこうした病原菌が持ち込まれることで多くの国民が、伝染病で亡くなったことを踏まえて、特に中国・韓国からやって来る船に関しては衛生面で厳しく取り締まったことから「うかんむりに辛い」という『宰』という文字を当てたそうです。
ちなみに当時は日本海を隔てて能登・新潟・秋田でも大陸との交易が盛んでしたが、交易の相手はシルクロードから渤海を経てやってきたアラビア商人でした。
彼らとの交易品は、アラビアからは砂漠にあるケイシャから取れるガラスを加工して作った細工(グラス等)、日本からは川底にたくさんあった砂金(えっ?まじですか!)だったようです。
「所変われば品変わる」ではありませんが、当時のアラビア人や日本人は、地元で簡単に採取できる物産品をお互いの故郷に持ち帰ったことで各々の民族が、
「当時の時代の民族がどのような生活をしていたかについて直感的に理解することができたのではないか?」
こうした物産品を通して世界の人々の暮らしに思いを馳せて、
「今世界で起こっていることについて情報交換することができたのではないか」
と考えています。
当時の人たちは、こうした物産品に触れることで、現代人のように与えられたニュースだけをみて物事を判断するよりも、もっと世界の正確な情報を得ることができたのでしょうね。
こうした古くからの歴史を振り返ることができる資料は今後とも大切に保管されるべきですよね。
弥栄